なんとか12日まで来ました下田五郎。 
1日1日を それこそ薄氷を踏む思いで 勤めさせて頂いております。(笑)


お相撲さんが初日を迎える時には 千秋楽を考えず 毎日の取り組みを1日1日 頑張るだけ!
と 云われる気持ちが やっと分かるような今日この頃です。


普段は どこか 日常になって たんたんとお役を務めてしまっているのかもしれません。
たった一役ですのに毎日が どこか全力疾走、そして 毎日が特別な一日。

同じクオリティの芝居を25日続けることは もちろん 演者としては当たり前のことなのですが、
今月は それを超越した感じで、毎日が まさに「特別」な一日として つとめさせて頂いてます。

日々成長、日々若返り(笑)


そんな毎日の積み重ねです。



さて、そんな『修禅寺物語』で 私 下田五郎の着ている装束は 
直垂(ひたたれ)と申しまして、古代のヤマトタケルの時代から 平安 鎌倉 そして江戸時代まで 
武士階級には 広く長く使われてきた装束です。


もちろん 時代的に発展した経緯がありますから 古代と江戸時代の形には
多少の違いがございます。

しかし平安から鎌倉 江戸時代まではほぼ 同一の装束で伝わっております。

写真をご覧ください。

イメージ 1



私の着ている直垂は 鎧下直垂(よろいしたひたたれ)と申します。 

これは 頼家を討ちに来る金窪兵衛も同様のモノを鎧の下に この装束を着ております。


袖についている紐は「露紐(つゆひも)」と申し 舞台上でも私が 金窪の家来と
立ち回りを演じます時に 袖の紐を絞って結んで 首にかけ襷の原理として対応致します。

この絞った状態で籠手(こて)をつけ 袴にも付いている裾の露紐を絞り
脛あてをつけ 丸鎧を着ますと 金窪兵衛の形となります。

以降、ご覧になられる方は、ぜひこのあたりの衣裳にも ご注目いただけましたら
また お楽しみいただけるのではないかと思います。


この直垂の形は 武士として目上の人に対面する時に着られる事が多く
武士が宮中などへ上がり 御門に拝謁する時などにも この形が用いられます。

室町時代では この形がさらに大きくなり 大紋直垂 それより格下の素襖直垂となります。

そして江戸時代には『忠臣蔵』などに登場します 烏帽子大紋 長袴と云う形になりますが、
これはあくまでも 江戸城に登城する時に限られ 時の上様に謀反を起こさない様にとの
配慮から 烏帽子大紋直垂と云う形になりました。


所謂 現代で云うタキシード 礼服 スーツの違いでしょうか?(笑)



さて、ここで質問です。

この直垂の姿、歌舞伎の舞台上だけではなく 現実に現代でも
使用されている所があるのを御存知ですか?


神社などの昔の装束を 活かしている所ではなくて 現実にこの姿で
現代のテレビに登場しております。(笑)
恐らく ご覧になられている方は たくさんおられるのではないでしょうか?


・・・夕方に(笑)




分かられました方は かなり通ですね(笑) 

答えは 大相撲の行司さんです。


もっとも江戸時代では直垂姿は許されておらず それまでは行司さんは
黒紋付 仙台平袴 または裃姿でした。

現代の姿となったのは明治時代からだそうです。



序の口 序二段 三段目 幕下までは 直垂姿ですが 五郎と同じく 露紐を絞り
素足で土俵に上がっております。

十両 幕内となりますと 露紐の絞りは使用せずに 本来の直垂の姿ですが、白足袋はだしで
草履は履いておりません 

そして三役の行司となりますと 腰には印籠を帯し 雪駄(草履)を穿き 
結びの一番の立行司だけに 帯刀(短刀)が許されます。


現在では武家社会はどうであったかの詳しい直垂の格式はわかりませんが
大相撲の直垂姿でも こうした格式がある事は 武家社会の面白い歴史の
名残なのかも知れません