今日は呉市文化ホール。

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この呉と云う名称の謂れは諸説ありまして、有力なものとしましては、
呉をつつむ山峰が九つあり 九霊峰から「くれ」

また、三国志時代に呉(建国は孫権)の戦火を逃れて ここまであって来た人を
呉人と書いて 「くれびと」と呼んだそうです。 そこから呉(くれ)。

スーパー歌舞伎『新・三国志3』で日本では卑弥呼の時代 春猿さん扮する伊予が
日本の使いとして蜀の国を訪れておりますから、この時代
あながち 交流が無かった訳ではないようです。

魏志倭人伝などにも 書かれておりますね。

今よりも ずっと遠い異国であったでしょうが、そんな時代でも交流があったことは
凄いなと思います。



そして、今日の呉でのお話は歌舞伎を・・・少し いやあ・・・だいぶ離れまして 
私の趣味的マニアックな方のお話を・・・・(笑)


先に申しておきますが、今日のお話は あくまでも私の興味の範囲です。
決して戦争そのものを賛美する訳ではございません
これだけは 先にご承知おき頂けますよう、お願いいたします。



ここ呉の町は今でも大きな港ですが、太平洋戦争、終戦までは日本の海軍の本拠地でした。

そしてここで建造された世界最大の戦艦が「大和」

昼夜の間に今日はここ、「大和ミュージアム」に 行って参りました。

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今までの巡業でも、呉へは何回か来ておりますが、出番の関係で訪れる事が出来ませんでした。
今回の巡業でここは何日も前から、本当に楽しみにしておりました。


戦艦「大和」
 

最大排水量72,000トン 全長263メートル 幅39メートル 
主砲46cm砲3連装3基。 この砲弾は42km先まで届き 敵の戦艦を
一撃の元に沈めてしまう破壊力。

日本の造艦技術のすべてが結集された戦艦ですが、悲劇の戦艦でもあります。

本来、戦うべき当時のアメリカの戦艦群は 日本の空母と飛行機による
ハワイの真珠湾攻撃によってすべて沈められてしまい 戦う相手がいなくなってしまいました。


その後、戦闘に参加する事もなく 唯一、昭和19年末のレイテ沖海戦によって
敵の護衛空母軍に1回だけ 主砲を放っただけです。

この時に、同型艦の「武蔵」は敵の飛行機によって沈められ この戦いで
日本の艦船はほとんど全滅。


かろうじて生き残った「大和」も昭和20年4月、何百隻のアメリカ艦隊に 
飛行機の援護もなく 艦隊と呼ぶにはあまりにもみじめな たった9隻の
巡洋艦 駆逐艦の護衛と共に 片道燃料で沖縄に向うと云う 無謀な作戦で沈没しました。

戦艦の戦艦としての役目も果たせず、竣工してから あしかけ4年で 
その姿を消してしまったのです。



でもやはり「大和」は、私の子供の頃からのあこがれの戦艦でした。
当時はやったプラモデルなどで、何隻 作った事でしょうか?(笑)

写真は大和ミュージアムの その「大和」の10分の1サイズの模型。

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これでも全長26メートルございます。
50メートルプールに浮かべても 進む事が出来ませんね(笑)

小学校のプールよりも大きいと思いますと かなりの大きさだと思います。


その他、ゼロ戦六十二型や小型潜水艦などの展示もありました。 


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横の「うみのくじら館」では 自衛隊の引退した潜水艦の実物も展示してありました。

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大きい船ですが ほとんどが機関室で 居住区はせまく 操縦室も
自動車の運転席とさほど変わらない印象です。

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閉所恐怖症の私は、行動して潜航する潜水艦には乗れませんね。



ハワイの真珠湾では太平洋戦争の時の戦艦ミズーリなども記念館として展示してありました。
数度にわたる、ハワイ日記にも書かせていただきましたが 今のリゾート地としてのハワイと共に
こうして、歴史としてのハワイがあることは 私は ハワイを訪れる時に 必ず思い出さねばならぬ
事だと思っております。


そして、日本でもこうしたところが 残されていること。

日米の両方見る事により 改めて戦争の悲劇を 思い知らされます。

どういう歴史であり、知ること、触れることでしか 体験できないこともあると思います。
そのために 足を運ぶことで、知る、感じる、考える 

貴重な体験でした。
今日は呉に来れて 本当によかったと思います。

今日は歌舞伎を離れての お話でした。