いやあ!!! 

なでしこの対中国戦の死闘のあとで このブログを書いておりますが

称賛の言葉の何を書いても 色あせる様な見事な 岩清水選手の
決勝 ヘディングゴールでした!!


正直言いまして 私は リアルタイムで ゴールが決まったのに 気が付きませんでした(苦笑)

ん?? ん??? 入ってない? と思ったら 隣の家人が
「やった~!!!!」と。

その一瞬後に テレビでも「ゴ~ル」の文字と実況。
私は個人的には 数テンポ遅れてしまいましたが、その分目いっぱい

「バンザ~イ!!」

と云う 興奮のあと・・・・。



昨日の興奮を・・・・。(笑)


明治座夜の部の『慙紅葉汗顔見勢 伊達の十役』を 見て参りました。

昨日も書きました通り 全3幕 幕開きから幕が閉まるまで 
客席から全編を見たのは初めてでした。

初演は、1979(昭和54)年 4月

昨日の染五郎さんの舞台を見ながら、初演当時のお稽古の辛さや舞台裏の段どり。
色んな事を思い出しながら 楽しく見せて頂きました。


裏も表もすべてにわたりまして 舞台裏での衣裳替えなど やる事は分かっていますので 
 吹替えが引っ込むタイミングなど見ておりまして
「え?その早さで大丈夫?」と思っておりますと 鮮やかに染五郎さんが登場され、
これは猿翁旦那と私たちよりも 早いかも? と思った次第です(笑)


もっとも、その当時 私は舞台裏に居たので 客席でご覧になられていたお客様が
感じられる早替りの時間は 昨夜と同じくらいだったのかも知れません(笑)


猿翁旦那のお手本があるとはいえ 早替りの衣裳の着方も綺麗で 女形も違和感が無く
それぞれのお役の人格の違いも 表現されていて とても素晴らしい舞台でした。



ここまでの「形」を作るのが 何よりも大変でした。

初演時は、明治座の昼の部に上演されていたので、昼の部終わる時には 皆クタクタで
その後 夜の部が『夏祭浪花鑑』の通し その後 舞踊『唐相撲』が続きまして、
終演は毎日10時過ぎ。

勿論 翌日は通常通りに 昼の部があきます。

この当時は、大阪在住の私でしたが、その当時のホテルが 全くもって(笑)微妙な位置。
今でこそ、地方公演や 関西在住の方の東京公演は 劇場のすぐ近くの宿舎で
通勤時間のストレスがないのが いいのですが・・・

その時は、本当に微妙すぎる通勤時間に 慣れない宿での生活、そして朝から晩までの
舞台とございましたので、本当に大変でした。

若かったから 乗り越えられたのでしょうか。


とにかく、興行形態だけでも、今からは考えられないモノでした。




初演の初日が開くまでは 「ああでもない こうでもない・・と」 お稽古で毎日深夜までのお稽古が
1週間ほど続き、 

明日? 初日と云う時は とりあえず舞台稽古が終わったのが、朝の6時。
11時開演に向けて 皆 楽屋で仮眠をして 初日を迎えました。

初日が開いてからも 毎日色んなところの手直しがあり、やっと形になったのは10日ほど
経ってからでしょうか?(笑)


その年の7月に歌舞伎座で再演。 9月には京都南座で再再演。


このお芝居 猿翁旦那も思ったより くたびれられたのか?(笑)
昼の部に上演される事は なくなりました。

一部、名古屋御園座の折にだけ 『伊達の十役』だけの上演で 昼の部1回公演。
時々 昼夜2回と云う 変則公演はございましたが・・・。(笑)

いずれにしても猿翁旦那が 復活された江戸歌舞伎を海老蔵さん 染五郎さんの
お二人がご自分のものにされ さらに改良を加えられ この後も上演して下さる事が何よりです。


ここに伝統芸能の意味もあり 復活歌舞伎が古典となって参ります。

やはり、猿翁旦那の足跡は大きいものだと感じざるを得ません



舞台を客席から見るという 興奮と共に  開演前に楽屋へご挨拶に行ったのですが、
廊下ですれ違いました 中村米吉さんに

「あ!三幕 どの役に出られるのですか?」と聞かれ

「え?? えええ???(笑)」

冗談だとはわかっておりますが、すれ違いざまでしたので びっくり、ドキドキ。



その後に お父様の 中村歌六さんのお部屋に ご挨拶に行きましたら

「おぉ 久しぶり! 三幕 どの役で出る? 与右衛門(吹替え)のイメージしかないけど」

と言われました!!!


親子のお二人に 全く同じことを 云われてしまいまして 本当に驚いてしまいました。


懐かしい演目に 初演からご一緒しておりました 歌六さんとお会いし、
初演時には まだまだ 子供だった 染五郎さんが、立派に主役をつとめられ、
初演時には 生まれてもおられなかった 米吉さんや 中村壱太郎さんと云った方々が
脇を固めておられるのを見て、月日の経つ早さ、引き継がれていくことの素晴らしさを
感じずには おられませんでした。