『夏祭浪花鑑』の背景。この祭りと云いますのが 高津の宮のお祭り。
この高津神社は、松竹座のあります道頓堀通りから 道頓堀を挟んで
北側の宗右衛門町の通りを ずっ~と東へ参り、
松屋町(まっちゃまち)筋 を越えたところ。
北側の宗右衛門町の通りを ずっ~と東へ参り、
松屋町(まっちゃまち)筋 を越えたところ。
歩いても15分程で行きつきます。
今は、通りからわずかに神社の階段が見えるだけですが、
私の子供の頃は、宗右衛門町の通りから 小高い高津神社全体が見えました。
私の子供の頃は、宗右衛門町の通りから 小高い高津神社全体が見えました。
夏祭りの時には それはそれは賑やかで 私もよく行きました。
写真はその高津神社の北側の階段入口です。
写真はその高津神社の北側の階段入口です。
そのお祭りの時のお囃子の曲が 舞台では団七の義平次殺しの効果音として
流れており、背景にはだんじり屋台の竿灯が 遠見で通り過ぎて行きます。
流れており、背景にはだんじり屋台の竿灯が 遠見で通り過ぎて行きます。
白塗りの体に泥の色と赤い血の色で染まっていく 愛之助さん扮する団七。
刺青の色彩も鮮やかに 残忍であるはずの殺し場を 歌舞伎らしく
逆に華やかなものに表現致します。
逆に華やかなものに表現致します。
余談ですが、本来若い男の下帯(したおび 所謂 ふんどし)は白でして
赤を用いる事はないのです。
赤を用いる事はないのです。
ですが、序幕二場、住吉の場面で団七が御赦免になり
迎えに来ました 釣舟三婦が着替えを用意した折に 下帯を忘れて来て
仕方なく三婦が今 身につけていた 自分の下帯を、三吉に手伝わせながら、
外していく様が 舞台上にて描かれております。
迎えに来ました 釣舟三婦が着替えを用意した折に 下帯を忘れて来て
仕方なく三婦が今 身につけていた 自分の下帯を、三吉に手伝わせながら、
外していく様が 舞台上にて描かれております。
三婦は「しもた、白旗 すっかり忘れて来た!」と申しております白旗が、
この下帯のこと。
この下帯のこと。
三婦は還暦以上の年ですから、赤の下帯をつけております。
その赤の下帯を団七に使わせた事になっており
それが団七の泥場の義平次殺しの演出の伏線になっております。
それが団七の泥場の義平次殺しの演出の伏線になっております。
ですからその時の三婦は下帯を穿いていない状態(笑)
その設定で上手へ入る訳です。
その設定で上手へ入る訳です。
団七が義平次を刀で斬り付けながら 脱がされて行く団七縞の浴衣。
その白塗りの半裸の体には閻魔大王の彫り物。
赤の下帯と共に美術的にも映える場面です。
本来は侠客を表す刺青をも 絵面として 綺麗に表現するのが歌舞伎ですが、
逆に世界では 日本の美 タトゥーとして扱われているのは
何と云えばよいのでしょうか?
逆に世界では 日本の美 タトゥーとして扱われているのは
何と云えばよいのでしょうか?
私は子どもの頃から25年ほど 高津町に住んでおりました事
先日のブログにも書かせて頂きました。
先日のブログにも書かせて頂きました。
その後、5年ほどは昨日の団七のうちあたり 田島町のすぐそば。
現在では「瓦屋町」と云うところに 住んでおりましたので、
このあたりは本当に、地元でございます。
現在では「瓦屋町」と云うところに 住んでおりましたので、
このあたりは本当に、地元でございます。
その後、おもだか一門に入り 住まいを東京に移しましたが、
こうして上方歌舞伎に 出演させて頂き、地元を思い出せるのは
本当に嬉しい事です。
こうして上方歌舞伎に 出演させて頂き、地元を思い出せるのは
本当に嬉しい事です。
以前のブログでも書きましたが、この高津神社はその昔、
仁徳天皇が住まわれていた所で、高殿からは私の子供の頃でさえ
大阪湾まで見渡せられる、景色のよい所でした。
仁徳天皇が住まわれていた所で、高殿からは私の子供の頃でさえ
大阪湾まで見渡せられる、景色のよい所でした。
残念ながら今では、高速道路やビルに隠れて つい100メートル先も見えません
高殿には有名な仁徳天皇の詠まれた詩が額として掲げられており、
その横には坂田藤十郎さんが奉納した 『夏祭浪花鑑』の
一場面が書かれた絵がございました。
一場面が書かれた絵がございました。
よき時代に私は 高津と云うところに住んでいた事になります。
釣船の三婦の自宅は、正しくどこかは分かっておりません
ですが、うちの中におりまして 高津神社の祭りの御囃子が聞こえておりますし、
家の中には 奉納額が飾られておりますので おそらく 高津神社の程近く。
家の中には 奉納額が飾られておりますので おそらく 高津神社の程近く。
団七と同じく 田島町だったかも知れませんし、
昔私の住んでおりました 瓦屋町だったかも、高津町だったかもしれません
昔私の住んでおりました 瓦屋町だったかも、高津町だったかもしれません
高津神社で掲示されておりました昔の地図を ちょいと拝借いたしまして、
この位置関係を 書き入れて見ました。
この位置関係を 書き入れて見ました。
昨日、一昨日のブログと合わせて 見て頂けたらと思います。
この地図は 一応だいたいの場所を 位置関係として 書きこんでみましたので
正確ではありませんので、ご了承くださいね。
(私自身の経験と感覚に基づいた考察ですので、定説として扱う事はしないでください
道路の大きさも縮尺も違いますのでだいたいの位置関係として 見て下さい)
正確ではありませんので、ご了承くださいね。
(私自身の経験と感覚に基づいた考察ですので、定説として扱う事はしないでください
道路の大きさも縮尺も違いますのでだいたいの位置関係として 見て下さい)
昭和61年に文楽劇場で「関西歌舞伎を育てる会 自主公演」で上演されました
『夏祭浪花鑑』は 数多く出ております この演目の中でも
私にとりまして 一番 思い出深い公演でした。
『夏祭浪花鑑』は 数多く出ております この演目の中でも
私にとりまして 一番 思い出深い公演でした。
よくよく 振り返りますと、この時に住んでおりましたのが 瓦屋町でした。
その折には 逆に近すぎて あまり よく考えておりませんでしたが
よき時代、よき御一門、よき先輩方。
よき時代、よき御一門、よき先輩方。
そして、その演目を その地(文楽劇場)でしたと云う事。
何もかもが 私の中では 財産となっております。
この今月の「上方 花形歌舞伎」公演になぜ おもだかやの私が
出演しているのだろうと 思われるお客様も 中にはおられるかもしれません
出演しているのだろうと 思われるお客様も 中にはおられるかもしれません
ですが、この昭和61年の公演に出ていたのは 今月のメンバーでも
ほんの数人。
ほんの数人。
その経験を 少しでも次の世代に 引き継いでいければ
私の出ている 意味もあるかと。。。
私の出ている 意味もあるかと。。。
この昔のメンバーのお話は・・・また後日。