昨日のつづきです。3幕目1場。釣舟三婦うち。


義平次に 琴浦をさらわれ 三婦うちを飛びだした団七が走って追いかけ
義平次に追い着きますのが、長町裏(ながまちうら) 

この長町と云うのは 江戸時代の呼び名でして、現在では
堺筋の日本橋(東京ではにほんばしと言いますが、大阪はにっぽんばし)一丁目
あたりから この呼び名が使われておりました。

すなわち、現在の日本橋一丁目から今宮戎に続く 恵比寿町にかけての堺筋が「長町」


この時代 大阪は東西を通り 南北を筋と呼んでおりましたが
長町筋と呼ばれていたかは 時間的に資料をあたることが出来ませんでしたので、
定かではありませんが 長町一丁目から八丁目と云われております。


今でこそ 大阪のミナミと呼ばれる 繁華街のこのあたり 
実はこの江戸時代には随分 寂しい所でした。


道頓堀から北にかけては芝居町や花街で、お茶屋さんや 料亭などが
並んでいたようですが、

(このブログでも過去に何回か紹介致しましたが、)

現在の千日前のビックカメラのあたり、
ここは江戸時代は江戸の鈴ヶ森と並ぶ、上方の刑場でした。



罪人が首を切られて この土地に埋められ かなり広い範囲でお墓がつづいていた
千日墓、と 呼ばれていました。 


ですから、今の千日前通りから南は そう云った人たちが仕事をしていた箇所で 
人別帳に記載されない人達の住家となっていた場所です。



序幕の「お鯛茶屋」にて、一寸徳兵衛と仲間のこっぱの権 なまこの八が 
変装していたのが この人別帳にも載っていなかった非人の姿です。


この辺りは、ゆっくりと 解説をしたいのですが、まずはお芝居を見ていただくのが
いいかなと思いますので、解説は 今は省略いたします。

お芝居をご覧くださいね。


この「長町裏」今でいうと どのあたりだったのでしょうか。

四角い形で申しますと、現在の高島屋のあるあたりが、昔の難波蔵と云われていた、
場所。四角の「北西」

難波蔵は 幕府の直轄の米蔵で飢饉などの時の為に 貯蓄米を保存しておく所だったそうです。

また堺筋の日本橋3丁目が 四角の「北東」 

そこから南下しまして でんでんタウンのあたりが 「南東」。

なんばパークスがあるあたりが 「南西」。


(大体の目安ですので 正確ではありませんので、ご了承を)



その四角に囲まれた 今宮戎に至る通りをかこった所が 
「長町裏」と推察できます。



ですから、義平次殺しの現場は およそ日本橋3丁目から南または南西へ 
なんばパークスへ続くあたりだったのです。


貧民窟 あぜ道 たんぼ と続く 夜は本当に寂しい所だった様です。



寛政時代に貧民窟のイメージの強い 「長町」と云う町名は 「日本橋筋」と
名前も変えられましたが、無宿人や日雇いのひと達のたまり場となっていたのは
明治になってからも あまり変わらなかった様です。



私も子供の頃に その長町裏と堺筋を挟んで反対の東側 高津町(こうづちょう)に
住んでおりました。

その南側の町名も御蔵跡町(おくらとちょう)と呼ばれ 
このあたりにも蔵が立ち並んでいたと 推察できます。


私の住んでいた昭和の当時でも まだまだその辺は繁華街とは 
呼べないくらい別の寂しい通りでした。

(このあたりの高津町の場所 子供の頃のことは また改めて後日に・・・
 これもきっと 皆様 興味をもたれると思います。)



明治の時代に市電が開通して堺筋となりました。
(これは堺に続く筋と云う事だそうです。)


そして市電やバスの駅名も日本橋1丁目から3丁目となり 
子供頃には 大阪駅のある梅田から、淀屋橋を通り 北浜へ抜けて 堺筋を 
高麗橋 本町 長堀 日本橋1丁目から恵比寿町 あべの(天王寺)まで 
続いていた事を覚えております。

私の覚えている頃で どこまで乗っても20円。(笑)

また昭和40年代には 私の住んでいた高津7番町(10番町までありましたが)も
町名自体 日本橋2丁目となりました。 


話がそれてしまいましたが、古い町名と 現在の場所がつろくすると、お芝居も
現実味が出てくるかと思います。


明日は、団七のうちがどのあたりか? さらに追及してみましょう。(笑)