本日の公演場所は 少し変わっておりまして、岐阜市なのですが、
会館の名前は「長良川国際会議場」 

名前だけを聞きますと、およそ 劇場っぽくありませんが、
ここで 歌舞伎の公演を行いました。

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ね、表から見ても正面は殺風景でしょ!(笑)でも客席はやはり満席でした。


今日の会館(ん?会議場?)は長良川の川辺にあり 見上げると
目の前に 岐阜城がございます。


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私、坂東三津五郎さんほど、お城マニアではないのですが、巡業や旅行で
時間がございましたら 色んなお城めぐりを致しておりました。

ですが、ここ岐阜には何回か 訪れた事がございますが、ここのお城は初めてです。


「金華山」

その昔は「稲葉山」と呼ばれ 岐阜城の前の名前は「稲葉山城」

『国盗りの物語』などの戦国時代にによく登場する 齊藤道三の居城でした。

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齊藤道三。織田信長の舅にあたり 濃姫の父親ですが、物語に登場すると、
どう云う訳か、敵役で 「まむしの道三」と呼ばれておりますね(笑)


でもこの人 下剋上の時代に於いて 油売りの商人 松波庄九郎から 
西村家に養子となり 西村勘九郎と名乗り 西村家を乗っ取り 
さらに君主の土岐頼芸を追放して 美濃の領主となり 齊藤利政と名乗り 
信長の父 織田信秀を散々撃退した 美濃の大大名なのです。

ここまでは まさに破竹の快進撃!


しかし、因果応報、義父や主君を滅ぼした咎でしょうか?
息子である齊藤義龍に滅ぼされ、長良川で討ち死にを致しました。

さらにその義龍も若くして病死。

その子の龍興は信長に討たれて この稲葉山城も結局 織田信長のものとなり、
岐阜城として 名前を変えたのです。


その後も 信長の息子たちの居城ともなりましたが、信長と同じく本能寺で討たれ、
またその後は色々と変遷を重ね、関ヶ原の合戦の折りに 西軍 三成方となった為に
東軍に滅ぼされると云う事になり とうとう、廃城となってしまいました。


城に罪はありませんが 曰くつきのお城なのです。

城に戦いはつきものでしょうが、この城はことさら(しかも短期間に)
栄枯盛衰を見てきたのではないでしょうか。


現在の天守閣が出来たのは 昭和31年の事です。

今日、初めてこの稲葉山城(あえて 稲葉山城)に登りました。 

お城の立地条件としては申し分ない山です。

標高は329メートル 天守閣は小さいですが 山そのものがお城と云った感じで
周囲は平野 それこそ 名古屋方面 関ヶ原等 四方八方が見渡せます。


そして長良川を挟んで 今日の劇場 長良川国際会議場が 小さく見えました。

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500年の時を経て 齊藤道三は この城の天守閣で 
何を考えて周囲を見ていたのか、そこから見える景色は 今私が見ている景色と
どう違っていたのだろうか。

戦国武将にでも なった様な気持でした。


余談ですが、ここの天守閣に展あった太刀と刀の 展示の仕方が 
以前 このブログでも ご紹介致しました置き方でしたので 
その折には、ピンとこなかった方も多かったのではないかと思い、
その写真を掲載致します。

刃が下向きの太刀と

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刃が上向きの刀です。

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ここの受付の方に聞きましたら 写真撮影OKとの事でしたので、
掲載させて頂きました。


道中は行ったり来たり、荷物も出してはしまって しまっては出しの繰り返し。

ご当地の美味しいものを食べたいと思うのですが、終演時間の関係で
なかなか毎回、そう云う訳にはいかないのが現実です。(涙)


後ろ向きに考え始めると、きりがないのですが、
こうして 行きたかったところを 一か所一か所行ったり、
昨日のブログのように 思いがけない歴史上の人物と遭って(遇って??)
その人物と また違った人物とのつながりを知れたり。


こればっかりは、旅に出てみないと出会えないものばかりです。


今日は 岐阜から宿泊地の名古屋に帰る電車の中から
ブログをアップさせてもらいました。

さて、名古屋についたら 何を食べに行きましょうか・・・

でも、お昼を食べた後 夕飯は10時過ぎになってしまいます。(・・・つらい・・)