先日の『ヤマトタケル』のお役の中で 現在は無くなったお役の
お話を書かせて 頂きました。

今日は、無くなった台詞 変更された台詞のお話です。



もともと これが実はなかなか厄介でして、江戸時代の候文の様な言葉は
文献にも残っており、時代物のとしてある程度、皆様もご存じで 
収まりがございます。


でも古代の言葉と云うと どの様な言葉を使っていたのか? 
ほとんど記録的なものは、ないのが事実です。


まして、この『ヤマトタケル』は現代語を使う歌舞伎、
スーパー歌舞伎として生まれました。


古代のお話ですが、台詞は現代語と、ある意味 異文化の混合として作品が
書かれております。



例えば現在1幕5場の熊襲館で、ヤイレポがやって来た時の兄タケルの台詞

「熊襲と相模が手を取れば ヤマトの国など木端微塵(こっぱみじん)だ!!」

と申します。



これが初演の時には熊襲兄弟の館の兄タケルの台詞では 

「熊襲と相模が手を結べば ヤマトの国などおジャンだ!!」

と云っておりました。



歌舞伎的な台詞として用いられたのですが、この「おジャン」と云う表現は、
以前もどこかで書いた覚えがございますが、もともとの語源といたしましては

「江戸時代に火事にあった人たちの屋敷や家が 何もなくなった」

と云う所から 半鐘の音が聞こえると 「ジャンジャン!」 

そこから 「おジャン!」


いくらなんでも 江戸時代に出来た言葉を古代で使ってはまずいのではないかと、
初演の時にご指摘もあり 再演の時に変えられ「木端微塵」と云う 
言葉になりました。


この木端微塵も古代にあったかどうかは、定かではありませんが、
現代語の表現と云う意味では、許されるかな?

古代に半鐘の音よりも おさまりはいいかと。



別の場面では伊吹山の山神を退治して ヤマトへ帰る途中の伊勢のノボノの場面。

ヤマトタケルの台詞で

「どうした事か!私の足が鶏の様に三重に曲がってしまった。」

初演の時にはこの後に

「よし、ここの土地を三重と呼ぼう!」

と云う 三重県にまつわる台詞がございました。
(実際に記紀などではこの言葉が地名の語源となっております)

でも、台詞としてはあまりにも唐突なので、この台詞もカットされてしまいました。
(私は 大変好きなのですが・・・笑)



そして、このノボノで云っていた 

「私はいつも 何か途方もない物を追い続けてきた。
その追い続ける心から 私はたくさんの事した。 
その天翔ける心 それがこの私だ!」

と云う 名台詞。

今では 白鳥伝説の宙乗りの前にこの台詞が 持ってこられましたが、
初演時にはノボノで申しておりました。


初演の時の宙乗り前の台詞は、

「父上 倭姫様 兄姫 ワカタケル さようなら」の次に

「熊襲タケル ヤイレポ ヤイラム 山神 姥神 今からそっちへ行くぞ 
 そっちで会おう  そして また戦おう!」

と云う台詞で、白鳥の宙乗りが始まりました。


この台詞も実は物議を醸しまして お客様から

「あちらに行っても ヤマトタケルはまた戦うのですか?
 ヤマトタケルはそんなに好戦的な 人物なのですか?」・・・と

ですから 再演、再再演の時にノボノの台詞の「天翔ける心 それがこの私だ~!」
と云う 台詞に変わったのです。


これはほんの一部ですが、初演の時にあった台詞で 
場面が変わって生きている台詞、全くなくなってしまった台詞。 

様々ですが、無くなった台詞でも 名台詞はたくさんございました。


私も大好きだった台詞がたくさんございます。 


幕開きの帝の台詞で 偽橘姫の姉妹の詮議をする所

「わしの鼻は 訊き鼻で 橘の香りを見分ける事などは 
 訳もない事なのじゃが、このふたりから 橘の香りがするかのう?」 

(台本通りの正確なセリフではなく、意訳です)

と云う 「わしの鼻は訊き鼻」と云う言葉も好きでした。


このセリフ自体は初演でなくなってしまったのではなく
確か、1998年の松竹座公演のころまではあったと思います。
私の記憶が正しければ(笑)

無くなった台詞の中では 比較的最近まであったものでしょうか。


現在はさらったした台詞で 流されてしまいがちですが、
もし 初演の時の台本が古本屋さんでございましたら、
一度 読んでみて下さいませ。

古代の雰囲気が そして初演のあの熱く手探りで作り出していった
若かった私たちの情熱、その時の雰囲気が 生きて居るかも知れません(笑)