初演から900回の上演記録を超えました『ヤマトタケル』

私も、お役こそ同一の役ではありませんが、この作品の参加回数は900回に及びます。


初めて本役として出演いたしましたお役は、琉球の踊り子。
これひとつだけ!!

ただし「本役としては」です。(笑)


この折は 本役としての出番は少ないですが 休憩時間もないほど 
色んな事に朝から晩まで、目まぐるしく忙しかったのですよ!(笑)


この初演の折、一緒に出演致しておりました琉球の踊り子は、
門之助さん 右近さん 亀鶴(先代)さん そして芝喜松さん 私 段之さんの6人。

凄いメンバーでしょ?(笑)




その他の私のお役は 1幕2場での、大碓と小碓の兄弟の立ち回りの小碓(猿翁旦那)の
吹替え。

大碓は猿十郎さんでした。



そして、後は2幕3場の焼津での火の精。同じく4場の走水の浪後見。

火と水の自然現象を演じておりました。(笑)



その中でも 火の精は何回も何回もお稽古を繰り返しました。 
当時・・・猿翁旦那からなかなかOKが出ず、試行錯誤の繰り返しでした。

そりゃそうでしょ!! 歌舞伎の役者として入って来ていた私たちが、
半ばアクロバット的な事を要求されても とても出来ませんでした。


「1・2・3・4」といった 音楽をカウントで取るお稽古にも不慣れで、
毎日居残り的なお稽古の繰り返し。

再演再再演あたりで 当時のアンサンブルの若手の人たち 
そう云う事の出来る人を募集して 今の前例が出来上がって来たのです。

火の精を卒業した時には ホッと致しました。

その後は中国の京劇の人たちも交じり 現在の上演方法となって来たのです。




そして同じく浪後見の初演は私が28歳くらいの頃。 

今よりも大人数 50人ほどで大波を動かしておりました。
今から思えば かなり無駄な動きもしていたかも知れません

現在はマニュアルも出来ましたので30数人で操っておりますが、
当時の浪後見の波長(はちょうではありません なみちょうです・笑)を
私が引き受けておりました。


その浪長としての経験が今でも 演出助手として、凄く役に立っております。


この『ヤマトタケル』初演の折に 皇太子殿下がご覧くださりました。

カーテンコールの記念写真に私が、その折の「本役の」琉球の踊り子として 
一緒に写っております写真は、今でも大事な宝物です。



その後のヤマトタケル、
名題となった私が勤めさせて頂いたお役のひとつが「琉球の使者」

現在ではカットされてしまった役の一つですが、熊襲の場面で
琉球の踊り子たちを連れてくる「使者」として 一役ございました。
今はその台詞の一部を 踊り子自らが話しております。

初演では連れてこられる踊り子だった私が 連れてくる方のお役に
なったわけでございます。

そして竹三郎さんの尾張の国造での 「国造の妻」のお役。
欣弥さんの国造に対しての妻にもなりました。

さらに猿三郎となった時には ヤイレポと尾張の国造。

最初の妻役は 寿猿さん、今回は段之さん。


思えば 初演で琉球の踊り子を「若手として(笑)」つとめた私たちが、
今回は  みやず媛の両親を 演じているのも不思議なものです。

そのみやず媛を演じている人こそが、初演から変わらぬ笑也さん。 


そして、「古典」ヤマトタケルの歴史の中で、みやず媛の父と母の両方をしたのは
私だけでございますこと・・・これも、不思議なご縁です。


そして、昨年からの新大臣。 

今回、猿之助さんの『ヤマトタケル』では改めての尾張の国造。
改めてのお役ですが、猿之助さんのヤマトタケルに対しては、
初めての尾張の国造。


新大臣では 同じ場面には出ておりますが、それほどのからみはございません。
今回の国造ではまともに猿之助さんと 台詞を交わしております。

実は、襲名狂言のうちで まともに猿之助さんと絡んだのは これが最初なんです。
嬉しいですね、やはり。



思えば、『ヤマトタケル』では 様々なお役を勤めさせて頂きました。


女形から始まりまして、男、味方、敵。そして自然現象の一つ。吹替え。


これだけのお役をしておりますが 大和朝廷の人間をしましたのは
前回からの新大臣が初めてなのです。

これもまた 不思議なものです。



お役と共に、演出助手と云う責任あるお仕事をも与えて頂き、
スーパー歌舞伎に対する 私の立場は本当にありがたいものです。

それが後年 フランス・パリやニースでの『オペラ・コックドール』の
猿翁旦那の 演出助手代理として単独 渡仏にも繋がった訳です。


ひとつの作品での小さな事が どんどん次へと繋がり 
私のライフワークや集大成になっている事は 大変ありがたい事です。

振り返れば、小さい事もおろそかにせずに 取り組んで行った結果が 
どんどん 次の大きな事へと繋がって行ったなあ と 改めて知った次第です。 


古典の中の私、振り返れば、私自身の歴史の中にも『ヤマトタケル』という作品は
見事に息づいている、そう思えてなりません。