昨日からの続きとなりますが、

この物語、史実と歌舞伎の狭間が難しいです。

もっとも 私たちが「史実」と云っておりますのも 
『平家物語』でありましたり『源平盛衰記』と云う物語から来るものが
ほとんどでございます。

これもいわゆる後世の「物語」でございますので、本当に何があったか
それは もう今では ほとんどわかりません
(同時代の日記もございますが、それは 外から見たものです)


だからこそ 様々な物語があり、私たちが 未だなお
楽しむことができるのではないでしょうか。





さて 義経に由来する「判官びいき」と云う言葉が ございますが、

熊谷に討たれた敦盛にも あまりにも哀れで 可哀そうすぎると
云う人たちは多かったみたいで、

様々な所で 

「実は敦盛は生きていた!! 

 一の谷で死んでいなかった!!」

と云う 物語が多く作られたみたいです。



平経盛の末っ子 敦盛は、平氏が雅になってから育った経緯があり
横笛や謡 舞に対してもかなりの評価が高かったようです。


歌舞伎でも、ひょっとしたら? 平家物語などにも語られるように 
平敦盛は実は、後白河院のご落胤だったかも 知れないと云う・・・。 

ある意味 史実かも?と云うところに着目しました。



現在のNHK大河ドラマも この「実は○○のご落胤」の発想から
ドラマは展開しているみたいですね。

これが いわゆる物語(笑)


歌舞伎では 熊谷次郎が平氏に仕えている時に 相模と情けを交わし
懐胎した相模と共に 規律違反で首打たれようとした時、 

経盛の奥方 藤の方が自らも敦盛を懐妊している事を告げ 
お腹の子と共に 私に免じて 二人を許してやってくれと 嘆願して 

二人は所払となり源氏へ帰参となります。


そして生まれた子供が 小次郎直家 敦盛と同じ16歳。



京の都を追われた平氏が 敗走を続け 一の谷で合戦が行われるところの

熊谷の陣屋(源氏方)に 藤の方(平家方、も熊谷には旧主)が
逃げ込んで来る所から 『熊谷陣屋』の物語が始まります。



現在の『熊谷陣屋』は そのまま上演するとあまりにも長時間の為に、
いわゆる 熊谷の戻りから始まる事が多いです。


その為に それまでの経緯を説明するために 百姓三人が
ここまでの説明を致します。


が、


ほんらい こんな戦場のしかも本陣の庭先 に百姓が、
しかも 江戸時代の百姓が いる訳がありません(笑) 

ま そのへんはご寛大なご観劇を・・・(笑)



本来の『熊谷陣屋』ですと 主役の熊谷が登場するまで1時間くらいございます。

これが完全に、はしょられておりますので、ちょっとご説明を。



まず 石屋の親父、弥陀六が敦盛の菩提を弔うために 石塔を彫り 

これを 陣屋へ届けに参ります。 その途中・・・。 

そこを源氏方の梶原平次景高に見つかってしまい囚われて 
詮議を受けるために 梶原と共に陣屋へ繋がれて参ります。


梶原は実は 熊谷が敦盛を討ったとは 信じておりません

自分も父も 元は平氏の家来で 熊谷とはお互い同じ 裏切り者(と思っております)


おそらく 熊谷は 敦盛の身替りを立てて 首も偽物に違いないと 
陣屋の中で 熊谷の動向を探っております。


そこへ熊谷の妻、相模(さがみ)が国もと(いわゆる 熊谷市)より 
初陣の息子小次郎の様子を伺うために 本来ですと来る事は叶わない 
兵庫の陣屋までやって参ります。


その後 討たれた敦盛の母 藤の方が 陣屋へやって来て
 
16年前に 相模の命を助けてやったのは私だから 
その恩を感じるのなら私と一緒に 熊谷次郎を討って 
息子(=敦盛)の仇を取らせてくれとせがみます。 



相模が返事に困るところへ 熊谷次郎が帰って参ります。


ここから ようやく 巡業の舞台が始まります(笑)

(百姓がこのあたりを一部説明をしておりますので、
 これも是非 内容を把握したうえで聞いて見てください。
 
 昨年の四月こんぴら歌舞伎で私が百姓をした時にも 解説しましたので
 遡ってみてください)



すでに 陣屋で敦盛の首を用意して 義経の首実検に備えようと
気持ちを整えている所へ 居る筈の無い妻 相模の顔!! 

来てはならぬ陣屋への相模の云い分を聞いていると 突然 


「敵(かたき)!!!」

と云って これも この場所には 居る訳の無い藤の方に 斬りかかられます。


思いがけず女二人から 

昔 熊谷と相模を助けてくれた藤の方の子 敦盛をなぜ討ったか? 


と 問い詰められ 「戦場で誰かれと 容赦がなろうか!!」

と 居直りながらも その戦のあらましと 敦盛卿を討った次第を 

物語にて 語るのですが・・・。



実はこれは 隣の部屋にいる 梶原景高に聞かすために 物語るのです。 

(先ほど書きましたように 梶原は熊谷を疑っております)


こうして 敦盛卿の首を刎ねたいきさつを語ると 藤の方は泣き伏し 
相模はこのように云って 慰めるのです。

「いや、申しお局様 ご一門残らず 屋島の浦へ落ち行き給う 

 中に一人(いちにん)踏みとどまり 討ち死になされた敦盛さま、

 数万騎に勝れし高名 但し逃げのび身を隠し 人の笑いをうけ給うが

 あなたのお気では おうれしいか? そりゃご卑怯な ご未練でござりまする。」と


熊谷は 「でかした!!」 と云って 相模を褒めるのですが 

この後 この言葉が 相模 自らに降りかかるとは 

この時には 思いもよらなかったでしょうね(笑)・・・・ つづく