来週の今日あたりは、もう巡業のお稽古たけなわですが、
演目の『熊谷陣屋』について 少し書かせて頂きます。

巡業の予習程度に気軽に読んで下さいね(笑)


熊谷とは人の名字ですが 現在 夏には毎日、その市の名前を聞きますね。

今日も37度とかいう 暑い場所。(笑)

熊谷市とはこの人が、治めていた所になります。


市川右近さんが 国立劇場に於いて自主公演として『熊谷陣屋』を
出されたのが、1999年(平成11年)。


この時には、『一谷嫩軍記』半通しで『陣門・組討ち』『熊谷陣屋』と続きました。

実際に『陣屋』だけを上演すると致しましても、本来はこの場面だけで

約3時間近くになる演目。


ですが、現在は大体 『陣屋』だけですと 1時間45分くらいになるのが
通例になっております。



このお芝居、歌舞伎と云えども もうポピュラーな演目ですので、
半ば種明かし的になってしまいますが、ご容赦ください。



初めてご覧になると かなり難解なお芝居かも知れません

お芝居の内容と 実際の史実ではかなり違いますので、
その辺もお含みおき下さい。



史実の熊谷次郎直実(くまがい じろう なおざね)は源氏の武将。
頼朝 義経の家来です。 


実はこの人 頼朝 義経の父 義朝(よしとも)の家来だったのですが

一時期 平知盛の家来だった時もありました。


ですが、頼朝の源氏の旗揚げと共に またまた寝返って 

頼朝の家来になるのです。



そして 一の谷の合戦に於いては 敵の搦め手の大将、
平敦盛(たいらのあつもり)を討ちとり 大手柄を挙げます。


搦め手と云うのは・・・ 


一の谷で散々な敗北を喫した平氏は 四国の屋島目指して 敗走いたします。 

その味方の逃げる時間を少しでも稼ぐために 討っ手の前に立ちはだかり

味方の最後尾で 敵を食い止めるのが役目の事。 

ほとんどと云っていいほど勝ち目のない役割です。 


色んな合戦でも搦め手の大将はほとんどが 戦死しております。



ただ一例が 織田信長の越前の朝倉攻めの時に 義弟の浅井長政の急襲を受け

羽柴秀吉が搦め手の大将を引き受け 浅井の猛攻をからくも凌ぎ 

織田信長を無事に逃がした後に 自分も急いで帰還した例があるくらいです。


またまた話がそれました(笑)



ここ一の谷の合戦で 平敦盛を討った熊谷次郎ですが、この時熊谷およそ43歳。

迎え撃つ 平敦盛16歳。 


討った後で敵の大将が少年だった事に驚き 戦争のむなしさから 

出家して連生(れんしょう)と云う僧となり 敦盛の菩提を弔います。



敦盛は 平清盛の孫 平経盛(つねもり)の子です。 

一時、仕えていた主人知盛の甥となります。


現在 NHK大河ドラマをご覧のお方は よくご存じだと思います。

ここまでが、一応史実のお話。




ここからさらに史実か? 虚構か? 

琵琶法師等によって伝えられた 平家物語から 

能 謡曲さらに歌舞伎となったいきさつを 明日、書かせて頂きます。(笑) 



今日は云わば プロローグ。

明日をお楽しみに






これでは 少し肩すかし過ぎですか?(笑)

では 裏話をひとつ。(笑) 


『若鮎の会』では私 熊谷の妻 相模を勤めさせて頂き、

1999年のこの『第7回 右近の会』の時に 私は

堤の軍次を勤めさせて頂きました。 


巡業の今回は弘太郎さんが 軍次のお役。


右近の会の時にこのお役を右近さんから 頂いた時に思わずでた言葉が、

「軍次 私でよろしいのでしょうか?」と 

これは 熊谷次郎こそは、年配のお役ですが 若手が勉強会や自主公演で 

勉強のために勤める事があるとは云え 堤の軍次のお役はいわゆる 熊谷の近習。


勉強会としても 熊谷役の方より年齢的に一回り以上 上の方が勤める事は
ほとんどありません


私の勉強と致しましても 当時36歳の右近さんの熊谷に対して 
近習 堤の軍次役の私 47歳。 


熊谷を私がやって 右近さんの軍次でもおかしくない 年の差。(笑)

当時 軍次役を出来る若手の俳優さんがいなかった事が 
私に幸い致しましたでしょうか?

お陰で 本公演では絶対する事のないお役をさせて頂きましたのは 
よい経験となりました。(笑)