昼の部『小栗栖の長兵衛』の幕あきで 私 茶屋の亭主重助と 

村人の丑五郎と彦松が昨日の山崎の合戦の事の話をしております。


丑五郎 「明智光秀も、案外脆かったではないか?」

重助  「そこが世に云う 三日天下で ・・・。」


この日が1582年 (天正10年) 6月14日。

1日前の13日が 羽柴秀吉と明智光秀の天王山の戦い 山崎の合戦。


明智光秀が本能寺で織田信長を襲撃したのが 
これより およそ10日前の6月2日。


ですから、本来 光秀は小栗栖で土民に討たれるまで 
11日間は過ごした事になります。

私の台詞にございます「三日天下」と云うのは「3日間」と云う事ではありません。


世に云う三日天下は 京都に於いて 政務らしき事をしたのが 
三日だけだったと云う事らしいです。
(三日=短い 事を表すという説もございます)


でも、なぜ、中国地方の毛利攻めに居た羽柴秀吉が 
すぐに本能寺の変を知り 中国攻めを途中で 中止して
所謂 大返しと云われる 弔い合戦の快挙に出られたのでしょうか? 

そのおかげで たった10日程で 光秀の天下は 終わってしまいました。


 
これは実は 明智光秀の急使が 毛利方へ派遣され 

「私が織田信長を討った!!
 秀吉に援軍は来ない  備中高松城を攻めている秀吉を
 討つなら 今が絶好の機会だ!! 
 高松城主の清水宗治を助けるなら今だ!!」

と云う意味の密書を 送ったのです。


ところがこの急使が 毛利方に到着せず 
あろうことか途中で 秀吉の見張りに見つかってしまい
密書を 奪われたのです。


秀吉側では 思いがけなく 主人、織田信長の死を知り 
その張本人が 明智光秀だと知れました。

逆に毛利方は何も知らないまま・・・

高松城の城主 清水宗治 以下 重臣数人の切腹を見届けることで
城内の兵士を助ける約束をして この戦、和睦となりました。


高松城の兵士たちが 引き揚げる秀吉軍を見て ホッとした後に 
本能寺の変を知る事になります。


その時には秀吉は 先に書いた通り もう2、3日で 
天王山 山崎近くまで帰って来て 陣を張ったそうです。



明智光秀も 毛利方に密書を送らなければ 
もう少し長く 天下人で居られたかも知れないのに・・。(笑)


その密書がなければ 小栗栖で 討たれる事もなかったかも
しれないですね。
 
そうすれば『小栗栖の長兵衛』と云う お芝居も
出来てなかったでしょう(笑)



あまりにも 予定通りに そして あっさりと信長を葬り、
それゆえに やらなくてもいいような 余計な事をして 
結局 墓穴を掘り 自滅してしまった訳です。


彦松が台詞で云っている

「1日が2日 2日が3日に延びた所で
 主人の弔い合戦の秀吉に軍配が上がるのは 
 当然だろう・・。」 と


何処まで行っても 裏切り者の末路でしょうか?

そのきっかけを 自分で作ってしまったのですから。



今日の写真は その幕開きの百姓の二人。

丑五郎役の 喜猿さん

イメージ 1



彦松役の 猿琉さんです。

イメージ 2



幕開きから最後まで 出ずっぱり。

茶屋家族は 時々隠れておりますが・・・
本当に ずっとです。

平成元年の段四郎さんが長兵衛をされました時には 
私もこの役させて頂きました。

やりがいはございますが しんどい役です。



この百姓、私と三人 いや 先日の段之さんと猿紫さんを入れて 
五人で、幕開きには 重要な役割を演じております。


それは『小栗栖の長兵衛』と云う お芝居を 予備知識もなく
全く ご存じない方でも 芝居の中に入れます様に、

幕が開いてまず この場面 ここの場所 

そして 明智光秀と云う 人物の名前を出して 
本能寺の変から 山崎の合戦が終わった後であるという 
今の状況をお知らせします。
 

今このあたりの 人々の胸の内を 短い時間で お客様に伝える 
大変重要な お役どころです。


そう云った場面解説的なセリフは 他のお芝居でも
役者の台詞であったり、義太夫の語りであったり
実際には よくございます。

是非 他の芝居でも このあたりも ご注目頂きまして
ご覧頂きましたら より多くの発見があると 思います。

案外 幕開き2~3分で 重要な事を言っている事が
多いのです。


今月、幕が開いて おもだかやワールドに お客様を誘う 
インストラクター レポーター?のような お役の場面も 
あと6日となりました。


ご観劇の際は ご注目下さいね・・・(笑)