先日、二か所のお城(徳島から数えますと三か所)を訪れました。

城には それぞれ 栄光と衰退の歴史があります。

城の数と同じだけ、いえ、その城をおさめた人の数だけ、
その歴史があるのかもしれません



お城の中で一番の悲劇であるお城は 皆様にも 色んな所が
浮かばれるかも知れませんが

私は佐和山城ではないか? と思います。
(若干・・・?かなりの?思い入れもございますが)


佐和山城は豊臣秀吉に仕えた 石田三成の居城。 
禄高19万5千石。

同時代の家康が 江戸240万石ですから 禄高には歴然とした差があります。

家康 五大老のひとりに対して 当時 三成 五奉行のひとり。


 
「治部少(三成)に 過ぎたるものがふたつあり 島の左近に 佐和山の城。」


と、詠われた島左近とは 云うまでもなく三成の家老
この軍師に家来として来てもらうために 
三成は禄高(当時の水口4万石)の半分を与えたと云われております。

(学説では事実ではないとも言われておりますが・・・
 これはロマンとして そう思いたいので、そう云う事にしてください・笑)


そして、もうひとつの過ぎたものが この佐和山の城。



この城、どこにあるのか、本当に気になっておりました。

実は 新幹線から 城跡が見えるらしい??と 聞いていたのですが、


彦根のあたり・・・

東京から行きますと、名古屋を過ぎて 京都の手前。
最後の睡眠と思って うとうとしておりましたり、
なんとなく 気を抜いている最中に いつの間にか 過ぎてしまいます。

また新大阪や 京都から乗りますと、気持ちよく一杯頂いておりますと
いつの間にか 過ぎてしまいます。


が、先日、ようやく 見つけました。

一瞬です。本当に。




家康が 関ヶ原の戦いで勝利した後、この三成と一族を 悉く葬るために
佐和山城を攻め落とし 一族郎党 女子供に至るまで すべて捕えました。


そして縁続きのものは 四条河原で すべての者の首を討ち落とし 


三成も逃げ回った後 領地の民にかくまわれておりましたが 
その民に難が訪れる事を恐れ 自ら名乗りを上げて 
捕えられたそうです。


そして家康の前に 召し出され 後日 四条河原で首を討たれ 
41歳の生涯を閉じました。 


佐和山の城も その後にここに封ぜられた 井伊家が 彦根城を
作った事に伴い、破壊されましたので、現在 残っておりません。




歴史の中では家康が正で 三成が悪のように言われておりますが、

石田三成は潔癖な人で なあなあになる事を嫌い 律儀な人だったとも
云われております。


その分 敵も多く 秀吉には可愛がられたそうですが 同じ豊臣の武将とも
対立が絶えなったと 云われております。



でもこの三成は地元 佐和山城下では民の評判も良く 治世においては
素晴らしい手腕を持った居た人だったそうです。



三成が家康を破り 西軍が天下を治めていたら 大阪は変わっていたでしょうか?


いえ、今ある日本という国すらが もしかしたら なかったのかもしれません

鎖国がなかったら 歌舞伎という日本独自の文化も なかったかもしれません


歴史と云うものは 残酷ですが・・・その歴史の延長に私たちは
今こうして 生きているのですね。



先日、ある方から、コメントで「やってみたい武将は?」という質問があり、
その答えに まず いの一番に「島左近」を挙げさせてもらいました。


石田三成も 私にとっては 非常に興味深い人物ですが、
その軍師になりました 島左近こそ、憧れる存在です。


佐和山城、遺跡の発掘なども されているそうです。

一度 行ってみたいところです。

が、掛川同様に どうしても 通過するだけになってしまいます。
京都から それほどの距離ではないのは 分かっておりますが・・・


また今度、休みがございましたら・・・行きたいなあ~!!