今日は 一回公演。

ですのに こんなに更新が遅くなってしまい、申し訳ありません。

実は チョッと たのしい時間を 過ごしておりました。

が、この事はまた 後日に・・・



今日は 別の お話。



というよりも、本日は雑談です。(笑)   




一昨日のブログでも申し上げましたが、私は板橋に住んでおります。

ご存じの通り 日本橋から出発いたしまして 
東海道の第一番目の宿、品川と同じく 中山道の第一番目の宿場町です。  


名前の由縁は 昔 豪族の板橋氏が住んでいたそうです。


お隣の赤羽 豊島 なども豪族の名前が
そのまま住所になっているそうです。



この板橋宿 三つに分かれておりまして 日本橋に近い順から 
平尾宿(下宿)  仲宿 上宿となり  
私は上宿と云われたあたりに住んでおります。 


と云っても この三つ それほどの距離はなく 
せいぜい地下鉄ひと駅程です。



また、板橋の名前の由来の 別の説?になります「板橋」も、
先日私がお花見を致しました 石神井川に橋がかかっております。

それも 日本橋程大きくはなく 
街道にかかる、ほんのちいさな木の橋です。(笑)


ここの板橋宿を舞台としたお芝居に
2002年7月 歌舞伎座で 猿之助旦那が演じました
『暗闇の丑松』がございます。 

仲宿商店街から ほんの数メートル入りましたお寺には
江戸の当時、ここ板橋の宿場におりました 遊女たちの
お墓がございます。

「暗闇の丑松」に出て参りました お米さん(笑也さんが演じてました)
のような女性も ここに葬られているのでしょうか・・・・




今でもここの、仲宿商店街は賑やかで 昔の宿場町を彷彿させます。


そして この上宿には 皇女和宮が京都から江戸に下るときに
避けて通った云う『縁切り榎』も 現存しております。





一昨日 ご紹介した近くの小学校は 加賀小学校と云い 
この近くにも加賀町という名前の住所が存在します。 


今は公園となっておりますが ここは元々は 
加賀藩の下屋敷のあったところで
上屋敷は云うまでもなく 現在の東京大学 赤門のある場所。
あそこが加賀藩 上屋敷でした。 


加賀藩の最初の領主は織田信長の家来 
豊臣秀吉の友人であった五大老のひとり前田利家。

その後も加賀百万石として 江戸時代も長く続いた家系ですね。


お芝居では『加賀見山旧錦絵』(かがみやま こきょうのにしきえ)
『加賀見山再岩藤』(かがみやま ごにちのいわふじ)でも有名です。




私 先日 ソウルに行って祖母や父が暮らした地を見て参りました。

その祖母が明治17年生まれ 

その祖母の母はもちろん 江戸時代の生まれですから
まだ加賀藩下屋敷はこの地にあった事になります。


そう思うと 江戸時代はそんなに遠い昔ではないのだなあ 
なあんて思ってしまいます。



祖母の時代から遡って 100年と云うと
もう 今月のお芝居のもととなった
この『東海道四谷怪談』や『仮名手本忠臣蔵』が 
初演されていた時代につながります。



加賀藩に所縁のある住所にいて 
なんとなく芝居心がくすぐられる板橋ではあります。


それにしても 10年ひと昔と申しますが。。。

100年前なんて 途方もない昔のように思っておりましたが
もしかしたら ほんのつい この間の出来事だったのかもと
思ってしまう事も ございます。


今からさらに100年の後・・・

私たちが初演した 演目が はたして残っているか・・・

いやいや、残っている事と思います。