『四谷怪談忠臣蔵』 5日目を迎え 
出演者も幾分 余裕が出てきたように思えます。
 
私にとっても 今日の一回公演は 本当にありがたいです。
 
 
 
先日 申し上げました、忠臣蔵と四谷怪談との関係について 
お話し申し上げます。
 
 
今日は、まず「東海道四谷怪談」について、少しばかり・・・
 
 
『仮名手本忠臣蔵』の初演以後 
大当たりをとったこの作品にあやかって
『忠臣蔵 外伝』物が たくさん 作られました。 
 
 
『南部坂』しかり 『土屋主税』しかり 
 
そんな中で 『東海道四谷怪談』も 
忠臣蔵の世界を取り入れて 大当たりにあやかろうと 
物語の主役を 討入から外れたアウトローとして 扱い 
忠臣蔵の裏の世界を作り上げたのです。
 
 
舞台となった元禄時代に 実話で不倫の男女を
戸板の裏表に釘づけに打ち付けて神田川に流した・・・話 
男女死体が砂村隠亡掘に流れ着いた・・・話 
 
など、当時の事件を 巧みにつなぎ合わせて 
鶴屋南北は独特の世界を 作り上げました。
 
 
 
この初演時には 忠臣蔵と四谷怪談を交互に組み合わせて
全編を2日に分けて上演されたそうです。
 
その後、「東海道四谷怪談」だけが 独立して上演されるように
なりました。
 
 
つまり、東海道四谷怪談は、忠臣蔵と密接に結びつき、
忠臣蔵の世界の中で 忠臣蔵の「脇筋」を 
描いているというわけなのですね。
 
 
 
では、ここで 一つの疑問が・・・・
 
 
 
本来 「四谷」は「甲州街道」に属しているのに 
なぜ「東海道」四谷怪談なのでしょうか?  
 
これもいろんな説がありますが、
 
あまりにもおどろおどろしいお芝居ですので 
舞台を江戸に置いているにもかかわらず 
このお話は 江戸郊外の四谷ではなく、
平塚と藤沢の近くの 東海道の四谷の話ですよ。 
 
とする説 
 
もうひとつは 東海道は所謂 五街道の東海道ではなく 
7~8世紀に制定された五畿七道
(畿内 東海道 東山道 北陸道 山陰道 
 山陽道 南海道 西街道)
 
という区分の中で 武蔵国が含まれております
「東海道」という地域を表したものである。
 
という説。
 
が有力です。  
 
 
ちなみに、五畿七道は明治2(1869)
「北海道」が追加されて五畿八道となります。
 
 

なお、なぜ、たんに「四谷怪談」としなかったのか、
もしくは、実際の街道名で「甲州街道四谷怪談」
「甲州道中四谷怪談」、国名で「武州四谷怪談」、
 
などとしないで、あえて「東海道四谷怪談」にしたのかといえば、
 
街道名としての「東海道」が有名だったために、
それに便乗する意図があったのかもしれませんね。
 
 
と、ここまで書きまして、ふと思いつきました。
 
以降は、全く私の推測の域を出ないのですが・・・
 
昨年の5月に中日劇場で上演いたしました
「東海道中膝栗毛」
 
これとの関係は??
 
 
調べましたところ、もしかしてビンゴ?(笑)
 
 
「東海道中膝栗毛」の出版は1802~14年。
その後、続編が「続膝栗毛」として1810~22年に
かけて出版されております。
 
「東海道四谷怪談」の初演は 1825年。
 
時期的には ぴったりですね。
 
もしかして・・・本当に もしかしての話ですが
当時のベストセラーの 十返舎一九の「東海道中膝栗毛」
これにちなんでの 「東海道」四谷怪談
 
なのかも知れませんね。
 
 
去年の「東海道中膝栗毛」と「東海道四谷怪談」
ブログを書いているうちに見つけた プチ発見でした。
 
もちろん、論文などでは とっくに有名な話なのかも
知れないのですが(笑)。
 
 
 
少し お話が ずれてしまいましたが 忠臣蔵と四谷怪談。
 
調べてみると 面白いものです。
 
「東海道」四谷怪談 の由来に関しましては、
その他にもいろいろ あるのですが この二つの説が
割と真実味があるかなと思います。
 
 
私の説は、スパイス的に考えて下さい(笑)
 
 
 
去年の「東海道中膝栗毛」が出ましたので もう一つ。
 
 
去年三月新橋演舞場での「獨道中五十三次」
これも、「東海道四谷怪談」の作者と同じ四代目鶴屋南北の作。
 
初演は「東海道四谷怪談」の二年のち、1827年です。
 
この四代目鶴屋南北は他にも
「慙紅葉汗顔見世」「於染久松色讀販」「櫻姫東文章」
「四天王楓江戸粧」など、猿之助一門とも縁の深い演目を
たくさん書いておられます。
 
 
ブログを書きながら、調べているうちに 楽しくなってしまい(笑)
思いのほか ちょいと 長くなりました。
 
また 続きは 後日にでも。