昨日、このブログの丸二周年、三年目へ ということを
書かせていただきました。


ブログ 三年目と云うことは。。。

一昨年の二月、「ヤマトタケル」のお稽古のときから 
名乗らせていただいております


市川猿三郎


の 名前も 三年目になることになります。



この前が 本名と同じ「延夫」でしたので、もう本当に
生まれた時から(笑)「延夫」だったわけなのですが・・・

やっと最近、「猿三郎」の名前に 全く違和感なく すごせるように
なってまいりました。

もっとも、幕内では まだ「延夫さん」「延夫ちゃん」と呼ばれて
おりますが・・・(笑)




本当に 憧れ 尊敬しておりました 「初代猿三郎さん」の跡を継ぎ、
私なりの「二代目猿三郎」を 作り上げて行きたいと 
改めて思いました次第にございます。


一月公演の「黒塚」 
この演目に 出演させていただきました 嬉しさは 何度も書いておりますが、
この演目 初代とも 本当に かかわりの深い演目でございます。


詳しいことは 直接は私は 存じ上げませんが、
猿翁さんの黒塚 にも 古くから(おそらく初演時から)
関わっておられましたし、

猿翁さんの時の「讃岐坊」、猿之助旦那のときの「大和坊」としても
何度も 出演されておりました。


しかし、私が一番心に残っておりますのが・・・・



昭和49年、1月2月。大阪新歌舞伎座の時のことです。

この時、二ヶ月連続の変則的な公演でした。

 

私は その時歌舞伎の世界に 本格的に足を踏み入れる・・・手前。

舞台には出ずに 当時の中村扇雀さん(現 坂田藤十郎さん)の
お手伝いで、岡持ちを持って ついて回っておりました。


二ヶ月間、半分ほどの演目は 二ヶ月続演し(順番は変わりました)
半分ほどは 一ヶ月で 狂言入れ替え。


今では あまり 例のない形式での公演でしたね。


その中で、二ヶ月間上演された「黒塚」


一月は 「黒塚」が夜の部の 二つ目の狂言でございました。

昼の部の切が「お染の五役」でしたが、その折、奈落を通りかかりますと、
出番に備えて、初代猿三郎さんが 「黒塚」で使用します「糸車」を
丹念に 巻き取りなおしておられました。


翌二月は、今度は「黒塚」が昼の部の二つ目の狂言で、
今度は「お染の五役」が 夜の部の一番切の狂言でした。

同じく「お染の五役」の時に 奈落を通りかかりますと
また、同じく 猿三郎さんが 遅くにも「糸車」の調整をされて 
おられました。

毎日毎日。



私にとりましては 父嵐冠十郎の 大先輩にあたる方です。

また、歌舞伎に明るかった 母からも 思い出話で聞いた中で
登場しておりました ある意味「雲の上」の 存在でも
あった方でございました。
 


舞台上で 猿之助さんが演じられます「岩手」が 使います道具を
毎日 毎日 御自分の出番のないときに 手入れをされている姿。

あれから35年が経ちますが、今も思い出されます。



その当時、まだ 二十歳そこそこの 私にとっては 
強烈に印象には 残ったのですが、本当のことは わかってなかった
のだろうと思います。

本当にそのことの大切さがわかったのは 後のことでした。


その時 私が そこを通らなければ知らないままだったかも知れません。

愚直な・・・というと 失礼かもしれないのですが、
そういった 見えないことが どれだけ大切か、それを教えていただけた
小さいけれども とても とても 大きな出来事でございました。





この話、襲名させていただくにあたり、色々な方に
お話させていただきました。

もしかしたら 以前に ブログにも 書いたかもしれませんが・・・・

重複していたら 申し訳ございません。



初代の名を汚さぬように これからも 精進していきたいと思います。