猿十郎の思い出 二日目です。



立ち回りのうまさだけではなく 立師としての彼も才能を発揮しておりました。


歌舞伎の立師(たてし)とは 以前にも申し上げましたが、
映画などで使用される立ち回り 所謂、技闘(ぎとう) 殺陣(たて)と違い
舞踊の要素がふんだんに 取り入れられます。


長唄や常磐津 また合方にのっての立ち回りは 流れるように綺麗でなくてはなりません 

彼は若い頃からその才能を発揮して 段猿さんが付けた立ち回りを 
稽古や初日が開いても 楽屋に帰ると 云われもせず 
みんなを集めて改良しておりました。



一番 思い出しますのが 1980年(昭和55年)義経千本桜通し狂言の初演の折。

段猿さんと猿十郎とで作り上げた 大詰め吉野山蔵王堂の場面の大立ち回り

今でも語り草となっており 先の海老蔵さんの『雷神不動北山桜』の大詰めにも
取り入れられておりました。



この当時はまだ 猿之助一門と云うには若手の門人も少なく 
この7月は 菊五郎劇団やその他の歌舞伎一門の三階さんを
お借りしての総動員でした。


私も関西在住で まだ本名で舞台に出演いたしており 
女形と 忠信吹き替えと 大詰め 蔵王堂の場では 狐のぬいぐるみの中に居り
立ち回りらしい 立ち回りには出して貰えませんでした。



その後 この大当たりの狂言を 地方公演や歌舞伎座、再演となりました時、
前の三階さんの メンバーが もうそろいません 

他の公演の為に 出演者がチリヂリとなったのです。




これに業を煮やした猿之助旦那が 
「他の一門を借りなくても うちの一門だけでも大立ち回りができるように!!」
と 猿十郎にゴーサインが出されました。


それからです。

私もトンボを覚え 萬屋さんや滝乃屋さんのお弟子さんに到るまで
一時は若手も20人くらいが 一度にトンボを返れるようになりました。


これはほとんど 猿十郎に習ったと云っても過言ではありません 



ここからこのメンバーでの最盛期を迎え 義経千本桜、忠信編の海外公演。
 
2ヶ月にわたるヨーロッパ公演
(パリ ロンドン ミラノ ベニス ボローニア ベルリン 他) 
これが2年に渡り行われました。 


また アメリカ公演(ニューヨーク ワシントン)等



すべての場所で蔵王堂の大はしごを使った立ち回りなどは喝采を浴びました。



この時 猿十郎が披露しました 大屋根からの2段返り落ちや 
僧兵6人返り越しなどは 本当に 鮮やかなものでした。


そして同時期に並行してスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の制作があったのです。


1幕、熊襲館の大立ち回り 2幕、焼津の火の精のアクロバット立ち回り 
3幕、山神 白いイノシシの立ち回り等 
彼の立ち回り作成の独壇場でしたね。



彼もアナログ人間なので 徹夜徹夜で作ってきた手順をノートにぎっしり書いて
私たちに振りを渡しておりました。 



「猿十郎の型」と云うのは 表立っては残っておりません・・・・

しかし、今、若い人による 立ち回りの端々に 
猿十郎の努力の結果が 垣間見れることはございます。

そのことが どこにかかれるということは けっして ございません。

ですが、時を同じくして 共に作り上げてきた 私には わかります。


「これは 『猿十郎型』だと」。。。




彼の残しました 功績は はかりしれません。