今日、梅玉さんの楽屋へ、朝のご挨拶に伺いましたら、思いがけず

「梅丸の紹介 ありがとうね」

と云う、お言葉を頂きました。
慌てて

「恐れいります」

と申し上げました。


掲載前に、師匠である梅玉さんに 掲載の許可を頂きに上がりましたが、
まさか、その日のうちに ご覧頂いたとは 思いもよりませんでした。
梅玉さん、ありがとうございました。




さて、今日は、梅田コマ劇場のお話。


私が初めて梅田コマ劇場に出して頂いたのは、1963年(昭和38年) 
11歳の時ですから 昨日の梅丸君くらいの年でしたでしょうか?

2月、中村竹弥特別公演『新撰組始末記』と『舞踊 竹弥七変化』で 
私は竹弥七変化の中の舞踊劇に出演しておりました。

股旅もので竹弥さん扮する 旅がらすの竹次郎は、 
数年前にやくざの鶴瀬の勝五郎を切り捨てました。
その父を斬られた子供の役でした。

劇中では、今朝、病で死んだ母が墓に埋められて 泣いているところへ 
通りかかった竹次郎。 昔の話をしていると そこへ鳥追い女の
江戸小唄市丸さんと三人で チョイお芝居と踊りがありました。



そして同じ年の9月は同じく梅コマにて、
ダイマル・ラケットさん 茶川一郎さんの忍術喜劇 『佐助と五右衛門』。 

これに伊賀の里 百地三太夫の息子 三郎太と云う女に化けた少年忍者が私でした。

 
そして次の月の10月、またもや梅コマにて 
中村扇雀(現・坂田藤十郎)さん 有馬稲子さんのコマ歌舞伎 
『浪花の恋の物語』に丁稚役として 出演致しておりました。 


なんと この年だけで3回も梅田コマ劇場に出演していたのです。


そして1966年2月には村田英雄さんの『花と竜』にも出ておりました。

こうやって振り返って見ますと いろんなお芝居に出させて頂いておりますね。


この他にも 父が出演していたお芝居などはいつも 
客席の後ろで見せてもらっておりました。 



そして私が歌舞伎に入ったのちにも 
猿之助旦那が梅田コマに出演されることになり 思いがけず、
これにも全て出演させて頂きました。


このコマ・グランド歌舞伎は猿之助旦那の実験的な公演で 
ここから後のスーパー歌舞伎へと繋がっていったのです。



猿之助旦那の梅田コマ初の座長公演は1979年(昭和54年)
『不死鳥よ波濤を越えて』でした。


これは男タカラヅカだと 一部でかなり酷評されたようですが 
平知盛が壇ノ浦の合戦で敗れたもののひそかに逃げ延び 
一部の家来と大陸に渡り 金の国の力を借りて再び源氏に立ち向かおうとします。
しかし金の国に裏切られ 逆に追い詰められて 夢破れると云うお話です。

どこか義経伝説と重なり 1幕は歌舞伎的に鎧かぶとの合戦シーン他 
また2幕は大陸に渡ったのち 
装束は『ベルサイユのばら』よろしく 知盛たち一行はオスカルやアンドレの様な 
軍服姿にマント と云ったいでたち 

そして最後は夢破れて 昇天する際 クレーンの先端に取り付けた 
大きな不死鳥にまたがり 羽ばたきながら客席の上を飛ぶという 
後の ヤマトタケルの前形とも云える 幕切れでした。

 
これにもうひとつ 歌舞伎教室的な 『ザ・カブキ』がショーとしてついており
舞台で隈取りのお化粧をして 衣装かつらをつけて 
その後 早変わりや立ち回りをする と云った これでもか!これでもか!
みたいな娯楽あふれる公演でした。 


流石にこれの毎日、昼夜2回公演は 役者はみなぐったりしておりましたが 
ただおひとり 猿之助旦那はパワフルで 出ずっぱり大車輪のご活躍でした。 
ここらあたりから旦那の昼夜出ずっぱり奮闘公演が、
だんだん凄くなってきたと思い出されます。 



これの成功によって 梅田コマ劇場による、グランド歌舞伎は本格的なものとなり 
この年から後 3年間も続き 計4回のコマ・グランド歌舞伎が公演がされました。 

その事は また明日のブログで。