1988年 今から20年も前のことになりますが、まだ 猿之助一門ではなく 嵐延夫の芸名であった当時の私。

新橋演舞場でのスーパー歌舞伎 ヤマトタケルの大成功の後 猿之助旦那より一つのお話を頂きました。

「今度 渋谷のパルコ劇場で若手たちの新しいお芝居をする。
それは 渋谷という歌舞伎をやったことのない街で 古い歌舞伎でなく またスーパー歌舞伎でもなく
若者たちの熱い息吹の新劇風な歌舞伎を ヤマトタケルの形を借りて新しく作ってみる
君もそれに参加してください。」と ・・・・「もちろん やらせてください。」と

そして 8月中ごろの暑い夏の日に、軽井沢のお稽古場に呼ばれました。
 
それから9月18日の初日近くまで 軽井沢で缶詰め状態でお稽古が続きました。
朝11時ころから晩11時ころまで 延々 お稽古が続きました。

まだ たたき台という元になるお芝居すらない状態。ああでもない こうでもない 
そうして伊吹山のヤマトタケルは出来上がりました。

本来のヤマトタケルの公演では長過ぎるからと泣く泣くカットされ 上演できななかった 
尾張の国造の館 伊吹山の鬼の件りを梅原猛先生の原作に基づいて 
逆に本公演の部分は 見事なほど ダイジェスト的に割愛して 上演いたしました。

私はその時に初めて みやず姫の母 国造の妻の役をさせて頂きました。
(後年 これが本公演においての 私の本役となり3年前にはこのお役を含めて 俳優協会賞 大賞を
受賞させて頂くことになるとは 夢にも思いませんでした。)

おかげさまで公演は大成功 今より若い若手、右近さん笑也さんを はじめ 今の錦之助さん
弥十郎さんたち そして私も若かりし頃の若手(笑) 

当時は 携帯電話もなく 近くに公衆電話もなく 交通の便は悪く まだまだそれぞれの車も少なく
私もバイクを持っておりませんでした。 今の稽古場ではない プレハブのバラックのようなつくり

稽古が終るとここに布団を引いて30人が一緒に寝るのです。

誰が見るわけでもなく 男ばっかり30人近くの団体生活 稽古着はTシャツに短パン 
ひげは皆、伸び放題 旦那のうちから離れた稽古場は さながら 捕虜収容所のようでした。
(女方も比ではありません お客様の目に触れないだけが救いでした。)


でも今、振り返ると 懐かしい1か月の合宿稽古 それから 雪之丞変化2001や西遊記など
21世紀歌舞伎組のお芝居も増えてまいりました。

そして今年8月の新・水滸伝 そのスタート・原点はまさにこの時!! もう20年も前かと 
思わず月日の早さにビックリいたします。


振り返ると、よくここまで、と思いますが その時にはまず一歩、踏み出すことが大事ですね。

「極付 森の石松」これもまず台本を貰って 踏み出すところから始まります。

16日からのお稽古 充電も充分過ぎ 腕が鳴ってうずうずしているこの毎日です。