相模の国造 ヤイレポ そして ヤイラム 
ヤマトタケルにおいて 敵対する蝦夷(えみし)です。

蝦夷(えみし)とは ・・・ 日本書紀に、この当時 大和朝廷にまつろわない(従わない)
異民族 とあります。  
西の 熊襲 隼人に対して 東の蝦夷 (えみし)


蝦夷(えぞ)というのは場所を示し そこに住み人々を蝦夷(えみし)と申します。
たて分けて 蝦夷子(えみし)と書く場合もございます。


この大和朝廷の頃は およそ尾張までが統一国家としての 統治された領土と云う説があります。


でもそれより東 相模の国 関東あたりはまだ ヤマトタケルのお芝居でも申しておりますが、
農耕民族の大和に対して 狩猟民族であったと言われております。

それがヤイレポ ヤイラムたちなのです。
  

彼らにとって  田や畑を作り 食料を確保する大和の生き方は 自由に走り回る蝦夷(えみし)
にはかなり脅威だったことでしょう。
 

食料を確保する その田や畑を作ると云うことは、守る術があってのこと 
鉄の刀は 蝦夷(えみし)の民族にとっては 到底 計り知れない武器であったと思います。


ここで お話 少し横にそれますが、この時代の蝦夷(えぞ)は相模 関東 
そしてこの後 平安 鎌倉時代あたりになると 関東まで平定され 
源義経が活躍する時代あたりになると 藤原三代からが 平泉までも平定しますから 
このときの蝦夷(えぞ)は 現在の岩手県北半分から 山形県 秋田県 青森県が 
蝦夷(えぞ)となります。


蝦夷(えぞ)と言うのは 大きく云えば 未開拓の地 と云う意味で 統一されて行けば その範囲はどんどん狭まります。


江戸時代から明治にかけては 蝦夷(えぞ)は北海道の事になります。 
でも もう現在では 北海道すら 蝦夷(えぞ)ではありません

未開拓の地ということで、蔑称として使われているようではありますが、
歴史を紐解けば、その少し後の時代、聖徳太子の時代に一時代を築いた
蘇我氏の一族の中に「蘇我蝦夷(えみし)(毛人ともかきます)」という名の人が
いたことも事実です。
面白いものですね。

ちなみに蝦夷の父は「蘇我馬子」、蝦夷の息子は大化の改新で殺された「蘇我入鹿」
共に動物の漢字がその名の中に入っております。



話を元に戻し ヤマトタケルの時代の事ですから いかに朝廷に敵対していたとはいえ
相模の蝦夷が 遠く離れた熊襲の新宮の建設など おそらく知る由もありませんし 
また その新宮の完成に合わせて あれだけの距離を大人数で行くとなると 大変な情報網を持っている事になりますね。

おそらく考えられないことでしょう。


ま これは 後で ヤマトタケルとの焼津での戦いがある為 お芝居の嘘 
歌舞伎特有のこじ付けとご容赦ください。  

でも この熊襲でのヤイレポとの場面があるだけで
この後のお芝居(歌舞伎)が煮詰まって行くのです。