ここの所、ちらほらと母の事を話題にすることがあったのでいろいろ思い出してしまってしょうがないので書いておこうかなって思った。
この2つの日記。
私の母は私が5年生の時に父とともに夜逃げをした。
正確には私が学校に行っている間にいなくなったので昼逃げか。笑
今のご時世だと、きちんとした手続きをすればやり直しもできるんだろうけど、その当時は今とは全く違う。
小学生だった私も、債権者に手を引っ張られ、どこかに連れていかれそうになった事がある。周りの子が大騒ぎしたので未遂で済んだが・・。
そんな時代である。
それから、高校生になるころには居場所を知らせてきたものの、その一生を逃亡生活で終えた。
裕福な暮らしは一切できず、亡くなったのも通勤路だ。
10年前の2月のある日の早朝。まだ真っ暗な時間。母は通勤途中に車にはねられ、帰らぬ人となった。
今と変わらず、ごろごろしながら友人と電話してたら、見知らぬ電話番号からの着信。
普段なら出ないことも多いんだけど、その日は何故か友達との電話を終えてまで出ることにした。
出ると大阪市内のとある大きな救急病院。
母が事故で運ばれているのだという。
・・・・・は?
感想はこうだ。
母が事故に遭ったという事が信じられなかったのもあるけど、何故その病院に?それが一番大きかった。
母が事故に遭った場所とその病院の場所が離れすぎていたからだ。
後で聞いた話だけど、どうやら交通事故でもうダメかもしれない人が運ばれる病院だという。言い方は悪いが設備が整っているという事だろう。
なので、ここに運ばれたら覚悟をしなければならないんだとか。
そんなことはつゆ知らず覚悟せずに駆け付けたので、初めドクターの言っていることが理解できなかった。
こっちは母がこの先目覚めて退院した後の心配をしているのに、先生は明日はどうか・・みたいな話をしている。
姉①が葬儀場を考えなくてはいけないって言っているのを聞いてなんとマイナス思考な・・。と思ったものだ。
結果、母は次の日の朝には息をしなくなった。
ちょうど姉2人と部屋に入った時だ。
そこから数回呼吸をして、それっきり。
あまりにも現実味がなさすぎて、すぐに涙も出なかった。
悔しくて悔しくて、全ての怒りを加害者に向けてしまった。
自転車と車。それも母は坂道を降りたばかりの出会いがしらの事故。
今となれば加害者と呼ぶのも気が引ける。
不運な事故だったんだと思う。
それでも当時は20km/h道路を40km/hで走っていたんだから・・と一方的に向こうが悪いんだと決めつけていた。
相手に何かひどいことを言った。とかそういう訳ではないけど、こちらの負のエネルギーを十分に感じてストレスを抱えていたんだろうなって今になれば思う。
なにせ、相手のラインのお知らせで、どんどんゲームのスコアが上がっていくのだ。
当時はこんな時にゲーム?ふざけんな。と思っていたが、きっとストレスからの現実逃避だったんじゃないかと思っている。
亡くなった日の2週間後、母は私の住む町に引っ越しの予定だった。
通勤路を通って通勤するのもあと数回の予定だった。
15歳離れていた父が亡くなり、1人で歳をとることに不安を感じていたから、せめて私の近くに住めば安心だろうと・・。
だから亡くなって一番最初にしたことは引っ越し屋さんと不動産屋さんと家電量販店へのキャンセルの電話。
今でも住むはずだったマンションの前を通ると心が痛む。
最後まで甘えられなかったな。
いや、子供たちに物を買ってもらったり・・っていうような事はよくあった。
だけど、普通の親子ならきっとある、精神的な繋がりはなかった。
私が子供たちに感じている心の繋がりを母との間には感じなかった。
多感な時期に急にいなくなった母を、心の底から許せてはいなかったんだと思う。
いや・・もう許していたんだけど、そういう態度をとるきっかけがなかっただけなのかもしれない。
母の引っ越しと近隣別居は、そういうものを取り戻す時間になるはずだった。
それが出来ないまま終わってしまった親子関係。
今は私のこんな気持ちをきっと知っていて、見守ってくれているんだと信じてる。
でもやっぱり。生きてる間に気持ちを伝えて、そしてハグしたかった。
そんな後悔を抱えているので、私は今日も娘たちにベタベタするのであった。笑