長崎でも平和祈念式典…77年目 | おしゃれ☆ファンタジー

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 長崎に原爆が投下されて、9日で77年となり、長崎市の田上市長は、平和祈念式典で「核兵器をなくすことが人類の未来を守るための唯一の現実的な道だと今こそ認識しなければならない」と述べ、核兵器廃絶を訴えていらっしゃいました。被爆地 長崎では犠牲者への祈りが続いています。

 

 
 長崎市の平和公園で行われた平和祈念式典には、被爆者や遺族、岸田文雄総理大臣のほか、過去最多となる83の国と地域の代表などがご出席しました。
 
 ことしの式典は、新型コロナウイルスの影響で規模を縮小した去年の3倍以上となるおよそ1600人が参列し、安倍元総理大臣が銃撃された事件を受けて例年より警備態勢が強化される中で行われました。
 
 式典ではこの1年に亡くなられた被爆者など3160人の名前が書き加えられた19万2310人の原爆死没者名簿が納められました。
 
 そして、原爆がさく裂した午前11時2分に黙とうがささげられました。
 
 

 長崎市の田上富久市長は、平和宣言で「核兵器の使用が『杞憂』ではなく『今ここにある危機』であることを世界に示しました。核兵器によって国を守ろうという考え方のもとで、核兵器に依存する国が増え、世界はますます危険になっています。核兵器をなくすことが地球と人類の未来を守るための唯一の現実的な道だということを、今こそ私たちは認識しなければなりません。『長崎を最後の被爆地に』の思いのもと、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言する」と訴えていらっしゃいました。
 そのうえで、田上市長は、日本政府に対して、核への依存を強めるのではなく、核に頼らない平和の構築に向けて議論を先導するとともに、核兵器禁止条約に署名・批准することを重ねて求めていらっしゃいました。
 
 

 続いて、5歳のときに被爆し、ことし初めて開かれた核兵器禁止条約の締約国会議で発言した宮田隆さんが、被爆者を代表してごあいさつし「77年前の8月9日、あの晴れた日に爆心地から2.4キロの自宅にいた5歳の私の小さな体は、吹き飛ばされ、母親の胸の中で目覚めました。いまもあのときの母親の胸の高鳴りが耳に残っています。あの夜、わが家にたどり着いた看護婦さんは、髪は逆立ち、左目は飛び出し、小さな声で『水をください』といったまま私たちの目の前で絶命しました。父は、黒焦げの焼死体となった叔父と叔母を発見し、5年後に白血病で亡くなりました」と当時の体験を語られました。 そのうえで、宮田さんは「今、私は10年前に発症したがんの悪化で苦悩の日々を過ごしています。多くの被爆者は私以上の苦しみに耐えて生き抜いています。ウクライナに鳴り響く空襲警報のサイレンは、あのピカドンの恐怖そのものでした。私たちは強い意志で子ども、孫の時代に『核兵器のない世界実現への願い』を引き継いでいくことを誓います」と、平和への誓いを述べられました。
 
 

 続いて、岸田総理大臣がごあいさつし、この中で核兵器禁止条約には触れず、「77年前のあの日の惨禍を決して繰り返してはならない。これは唯一の戦争被爆国であるわが国の責務であり、総理大臣としての私の誓いです。非核三原則を堅持しつつ、厳しい安全保障環境という『現実』を、核兵器のない世界という『理想』に結びつける努力を行ってまいります」と述べ られました。
 
 被爆者の平均年齢はことし、84歳を超え、長崎では、主な被爆者団体の1つが高齢化を理由に解散しました。
 
 被爆者の間では、いま、核兵器が再び使われるかもしれないという大きな不安や危機感が募っています。
 
 被爆地 長崎では、午後になっても平和公園を訪れる人は絶えず、不安定な国際情勢を背景に「長崎を最後の被爆地に」という願いをこれまで以上に強く発信する一日が続いています。
 岸田総理大臣は「77年前のあの日の惨禍を決して繰り返してはならない。これは唯一の戦争被爆国である、わが国の責務であり、総理大臣としての私の誓いだ」と述べられました。 そのうえで「核兵器による威嚇が行われ、核兵器の使用すらも現実の問題として顕在化し、『核兵器のない世界』への機運が後退していると言われている今こそ、『核兵器使用の惨禍を繰り返してはならない』と訴え続けていく。非核三原則を堅持しつつ、『厳しい安全保障環境』という『現実』を『核兵器のない世界』という『理想』に結びつける努力を行っていく」と決意を示されました。 そして「核不使用の歴史を継続し、長崎を最後の被爆地とし続けなければならない。透明性の確保、核兵器削減の継続、核不拡散も変わらず重要な取り組みだ」とご指摘しました。 さらに「『核兵器のない世界』の実現に向けた確固たる歩みを支えるのは、世代や国境を越えて核兵器使用の惨禍を語り伝え、記憶を継承する取り組みだ。被爆者などとともに、被爆の実相への理解を促す努力を重ねていく」と強調されました。
 
 平和祈念式典では、ことしが最後の参加となる被爆者の合唱団「ひまわり」が77年間の思いを込めて力強い合唱をお披露目しました。
 長崎の被爆者でつくる合唱団「被爆者歌う会『ひまわり』」は、2004年に発足し、長崎原爆の日の平和祈念式典で代表曲【もう二度と】をお披露目していますが、メンバーの平均年齢が81歳と高齢化し、式典への参加はことしが最後です。
 参列者が見守る中、メンバーは式典の冒頭で力強い歌声を披露し「もう二度と被爆者をつくらないでほしい」と訴えていらっしゃいました。
 「ひまわり」の会長で4歳のとき、爆心地から4.5キロの場所で被爆した、田崎禎子会長は「歌詞が届くようにという一心で、亡くなってこの場所で歌えなかった仲間たちの分も頑張って歌いました。今日で最後だと思うと寂しいです」と話していらっしゃいました。
 メンバー最高齢の89歳で12歳のとき、爆心地から4.2キロの自宅で被爆した、宇木和美さんは「長い間歌ってきたので、最後に式典で歌うことができてうれしい。戦争は絶対にいけない。戦争や核兵器は繰り返してはいけないとこれからも若い人に伝えていかなければならない」と話していらっしゃいました。
 
 岸田総理大臣は、長崎市で被爆者団体の代表と面会し、安全保障環境が厳しさを増す中、「核兵器のない世界」の実現に向けて、非核三原則を堅持しながら現実的な取り組みを進めていく考えを強調されました。
 この中で、被爆者団体の代表は、核兵器禁止条約への署名・批准、非核三原則の堅持と「核共有」の議論をしないこと、それに被爆者としての認定を求めて裁判を続けている「被爆体験者」への被爆者健康手帳の交付などを求めました。
 これに対し、岸田総理大臣は「現下のウクライナ情勢により『核兵器のない世界』への道のりはより厳しくなっていると強い危機感を持っているが、唯一の戦争被爆国であるわが国は非核三原則を堅持し、核兵器による悲劇が二度と繰り返されないよう現実的な取り組みを進めていかなければならない」と強調されました。
 そして「核兵器禁止条約は、大きな理想を目指すうえでその出口にあたる貴重な条約だが、核兵器国は1か国も参加しておらず、核兵器国を条約に近づけていくことがわが国の大きな使命だ」とご指摘しました。
 一方、岸田総理大臣は、「被爆体験者」に医療費を支給する支援事業について「がんの一部を対象に追加することを検討したい。来年4月より支給開始できるよう、事業の性質に照らし、どのようながんを対象とできるかなどについて、速やかに厚生労働省に検討させたい」と述べられました。
 
 長崎県の主な4つの被爆者団体の代表は、平和祈念式典のあと、長崎市内のホテルで岸田総理大臣と面会されました。
 そして、核兵器禁止条約に署名・批准し多くの国々に条約への参加を呼びかけることや、国が被爆者と認定する地域の外にいた「被爆体験者」を被爆者として認定することなどを求める要望書を手渡しました。
 これに対し岸田総理大臣はまず、核兵器禁止条約への署名・批准について「条約には、核兵器国が1か国も参加していないので、核兵器国を核兵器禁止条約にどれだけ近づけられるかが、唯一の戦争被爆国である日本の大きな使命であり、唯一の同盟国であるアメリカとの信頼関係を基礎としながら現実を変えていきたい」と述べるにとどまりました。
 また「被爆体験者」の救済については「被爆体験者は長年、病気に対する不安を抱えている。被爆体験者の高齢化が進む中、現在の事業にがんの一部を追加することを検討したい。来年4月より医療費の支給を開始できるよう、どのがんを対象にできるか、速やかに厚生労働省に検討させたい」と述べ、一部のがんを被爆体験者事業の対象に含めるよう検討する方針を明らかにされました。
 一方で、被爆者と認定するよう求める要望に対しては、明言をしませんでした。
 
 岸田総理大臣は平和祈念式典のあと、長崎市の原爆資料館を訪れ、田上富久市長などからご説明を受けながら、はじめに、入り口に展示されている、原爆がさく裂した11時2分を示したまま針が止まった柱時計を見学されました。 続いて、長崎に原爆が投下されたときの映像や、長崎の地形を再現した模型に、原爆が投下され熱線や爆風が広がっていく様子を映し出す展示、それに、熱線による被害を受けた被爆者の写真などを見て回られました。
 平成8年に開館した今の資料館を現職の総理大臣が訪れるのは、これが初めてで、今の資料館の前身となる「原爆資料センター」を含めれば、昭和59年に、当時の中曽根総理大臣がご訪問して以来、38年ぶりとなります。
 
 会員の高齢化などを理由にことし3月に解散した「長崎県被爆者手帳友愛会」の浜田眞治 元副会長は、長崎原爆の日の平和祈念式典の様子を長崎市内の自宅で見守り「この世界から戦争をなくしてほしい」と涙ながらに訴えていらっしゃいました。
 「長崎県被爆者手帳友愛会」は昭和54年から被爆地域の拡大や体験者の救済を求める活動を続けてきましたが、会員の高齢化などを理由にことし3月に解散しました。
 浜田元副会長は小学2年生のころに爆心地から5.5キロの小学校で被爆し、これまで毎年、式典にご参列してきましたが、ことしは自宅のテレビで式典を見守っていらっしゃいました。
 浜田元副会長は、式典にご参列していた時と同じように背広を着て、原爆がさく裂した午前11時2分になると静かに目を閉じてテレビの前で手を合わせていらっしゃいました。
 式典を終えて「長崎は最後の被爆地にしてほしい。原爆のことを思い出すと本当に悲しい。私の家の近くにいて被爆した女性が『お母さん逃げて。後ろで火が燃えている』と叫んでいた声が、いまだにわたしの耳の底に残っています」と述べられました。 そのうえで、戦争が再び繰り返されている現実について「どうして戦争する国を広げないといけないのか。外交によって、話し合いによって戦争のない平和な世界を築いてほしい。この世界から戦争をなくしてほしい」と涙ながらに訴えていらっしゃいました。 浜田元副会長は今後、個人として被爆体験者を救援するご活動を続けていく方針です。
 
 また、爆心地から1kmほど離れた長崎市浦上地区のカトリック信者の墓地には、朝早くから原爆の犠牲者の遺族などが訪れていました。 訪れた人たちは墓の掃除をしたあと、花を手向け静かに祈りをささげていました。
 母と2人の兄が被爆したという長崎市の69歳の被爆2世の女性は「記憶にある母はいつも寝たきりで、子どもながらに死んでいるんじゃないかと心配したのを覚えています。母は当時のことを思い出したくないようでしたが、私は母から聞いた体験を子や孫たちに伝えていきたいと思っています」と話していらっしゃいました。
 原爆がさく裂した午前11時2分に合わせ、長崎市内を走る路面電車の中でも乗客が祈りをささげました。 午前11時2分が近づくと、原爆資料館の近くを走る路面電車の車内では「8月9日は長崎原爆の日です。黙とうにご協力ください」というアナウンスが流れ、電車はいったん止まりました。 そして午前11時2分、乗客は静かに原爆の犠牲者に祈りをささげていました。 77年前の当日、原爆によって路面電車に乗っていた人も犠牲になり、運転士や車掌など合わせて110人以上が亡くなられました。
 
 長崎市の22歳の男性は「核は使ってほしくないという思いは強いです。これからは高齢化する被爆した方たちの代わりに、自分自身で平和について世界に発信していきたいと思いました」と話していらっしゃいました。
 
 また、江戸時代に建てられた石橋で、長崎を代表する観光名所として知られる長崎市の眼鏡橋でも、原爆がさく裂した午前11時2分に合わせて、訪れた人たちが黙とうをささげていました。
 祖母が被爆されたという40代の男性は「たくさんの方が亡くなられたので、霊を慰められればと思って祈りました。戦争はよくないと思いますし、核兵器をちらつかせて人を脅すことはよくないと思います。長崎から祈ることで、そうしたことがなくなっていけばいいと思います」と話していらっしゃいました。
 
 9日朝早く、長崎市の爆心地を訪れた広島県の60歳の男性は「やっと核兵器廃絶に向けた一歩が動き出したと思ったやさきにウクライナ危機になりました。プーチン大統領が核兵器の使用を含む戦争を正当化していることに憤りを感じます。『過ちは繰り返しませぬから』という熱い思いで来ました」と話していらっしゃいました。
 広島で4歳のときに被爆し、今回初めて長崎を訪れたという大阪 大東市の81歳の女性は「本当に天気のいい日で、きのこ雲がピンク色できれいな雲でしたが、真っ黒になりました。小さい頃でしたが、はっきりと覚えています」と被爆した当時のことを振り返られました。 そのうえで「どうしてこんなに戦争ばかり起こるのかと思います。殺し合うようなことも起きていて、世界が平和になりますように、みんなが幸せになりますようにと、手を合わせました。私は十分、幸せに暮らさせてもらっているのですが、戦争があるウクライナやロシアのことをテレビで見ると胸が痛いです」と話していらっしゃいました。
 
 
 午前7時前、長崎市の爆心地には、核兵器廃絶を求める署名を国連に届ける活動を行う「高校生平和大使」や長崎や広島、岩手などの16都道府県の高校生らおよそ150人が集まりました。
 高校生たちは1人ずつ爆心地を示す碑に花を手向けて原爆の犠牲者に祈りをささげたあと、全員で碑を囲んで「人間の鎖」をつくりました。 「人間の鎖」は以前は参加者が手をつないでいましたが、新型コロナウイルスの感染防止のために3年前からは手袋をしたうえでリボンの端と端をもって碑を囲んでいます。
 神奈川県からお越しの高校生平和大使の安本美緒ちゃんは「長崎に来てさまざまな方の講演を聴く中で、私たち若い世代が活動していくことの必要性を強く感じました。神奈川に戻っても精いっぱい活動していきたいです」とご挨拶しました。
 長崎市の高校3年生で被爆3世の渡辺あいちゃんは「祖父はあまり語る人ではなかったのですが、私が小学校高学年のころから夏休みになると必ず話を聴かせてくれました。きょうも晴れていますが、同じ青い空のもとに生きている人間として、これからも活動に取り組んでいきたいです」と述べられました。
 
 

 爆心地に近い長崎市の城山小学校では、平和について考える集会が開かれ、児童たちが平和への思いを新たにしました。
 城山小学校は長崎市の爆心地からおよそ500メートルの場所にあり、前身の旧城山国民学校では、原爆で児童や教師1400人以上が犠牲になられたとされています。
 敷地内に残る旧校舎は原爆の被害を伝える「被爆遺構」のひとつとして国の史跡に指定され、小学校では毎月、平和について考える集会が開かれています。 6年生を中心におよそ100人が集まった9日の集会では、ステージ上に児童たちが折った折り鶴が飾られ、原爆の犠牲者を悼みました。 集会で児童たちは、小学校で歌い継がれてきた【子らのみ魂よ】を、平和への思いを込めて合唱しました。 そして、各クラスの代表が平和への思いを書いた標語をステージの上で掲げ、児童の代表が「平和への発信を続けていくことを誓います」と述べられました。
 集会のあと、6年生の石本かのんちゃんは「自分たちが平和のことを伝えていっているのに、核兵器がまだあるというのが悲しい気持ちになります。核兵器は人を一瞬で壊す怖いものだと伝えたいです」と語られました。
 6年生の熊脇葵ちゃんは「平和が世界に発信されたらいいなと思って歌いました。戦争は絶対しちゃだめだということと、平和を大切にしていくことが大事だと思います」と話していらっしゃいました。
 原爆がさく裂した午前11時2分になると、児童たちは各クラスで平和公園に向かって黙とうをささげていました。
 
 長崎市の活水中学・高校は、爆心地からおよそ500メートルの位置にあり、以前この場所に建っていた旧制鎮西学院中学では、教職員と生徒合わせておよそ140人が犠牲になりました。
 学校では毎年8月9日に、被爆を語り継ぎ平和について考える集会を開いていて、9日は、オンラインで出席した人も含めおよそ300人がご参加しました。
 集会では中学1年から高校3年までの各学年の代表が「互いの個性や考え方を認め合うこと」や「できる小さなことを積みあげていきたい」といった、平和の実現に向けてやるべきことについて意見を出し合いました。
 そして、原爆がさく裂した午前11時2分になると、生徒たちはそれぞれの場所から黙とうをささげました。
 集会のあと中学2年生の山根唯乃ちゃんは「二度と戦争がないようにと思いながら黙とうしました。けんかなどがあってもすぐ仲直りできるのが平和だと思う。核兵器の数を減らして、人々が笑顔で過ごせるようにしたいです」と話していらっしゃいました。
 高校1年生の山田佳音ちゃんは「実際に被爆者の方の体験を聞いて、原爆の恐怖を知る機会はあまり残されていないのだと感じました。日本の若い人、世界の人にも原爆のことをもっと知ってもらいたい」と語っていらっしゃいました。
 
 爆心地からおよそ500メートル離れた長崎大学医学部では慰霊祭が行われました。
 ご参列したのは、大学関係者およそ50人で、このうち8人はウクライナへの軍事侵攻後、6月から7月に留学生として長崎大学にいらしたウクライナ人の学生などです。
 参列したウクライナ人も、原爆がさく裂した午前11時2分に合わせて静かに祈りをささげていらっしゃいました。
 大学で日本語を学ぶキーウ出身のミロスラヴァ・スヴィェトローヴァさん(22)は、避難していたウクライナ西部のリビウからポーランドを経由して、6月、日本にやって来られました。 長崎で初めて原爆の日を迎えたミロスラヴァさんは「被爆者はかわいそうで、戦争も被爆も同じように恐ろしいものだと思います。平和も人間の命も世界で一番大切だと思います」と述べられました。 また「平和は普通の一日です。学校とか大学に行くこととか時々つまらない仕事は平和な世界です。サイレンのない世界、戦争がない世界、爆発の音がない世界。これは平和な世界だと思います」と話し、日常生活を送れることが平和だと訴えていらっしゃいました。 そのうえで「歴史は苦しくても私たちにとって大事です。昔の苦しい経験をもとにして、もっとよい世界を、平和な世界を作りましょう」と話していらっしゃいました。
 
 
 
 広島も長崎も過去を忘れてはなりませんね😢
改めて平和への祈りをささげます🙏