過ちを反省し、それを繰り返さないように努力することがもっとも大事なことだと思っています。
僕が若かったときに、何回か人(親友、同僚、いとこを含む)を傷つけたことがありました。もちろん、それは全く故意ではありませんでした。「言動の不注意」によるものでした。しかし、人を一旦傷つけてしまったら、取り返すことはできません。どんなに言葉を使っても、謝っても無駄です。縁を切る結末しかありませんでした。その度に心が痛み、「あのとき、もっと人の気持ちに注意して、別の言い方をしたら、結果は違ったはず」と悔やみました。
人と接するときに、言動に注意して人を傷つけないように振舞うことは一大課題だと思うようになりました。これは「修養」の一つだと言えるかもしれません。しかし、これだけではダメです。本当は、「言動に注意しなくても人を傷つけない」ようにならなければなりません。孔子が言う「從心所欲不踰矩(心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こ)えず)」もこのことに当てはまります。「思うままに言いたいことを言って、したいことをしても、人を傷つけない」ようにならなければならないのです。しかし、七十にしてはじめてこのようになれるのは遅すぎだと思います。
だから、日々努力(修身)を重ねて、もっとも自然な状態の自分を理想に近づけることが大事なことです。
僕が若かったときに、何回か人(親友、同僚、いとこを含む)を傷つけたことがありました。もちろん、それは全く故意ではありませんでした。「言動の不注意」によるものでした。しかし、人を一旦傷つけてしまったら、取り返すことはできません。どんなに言葉を使っても、謝っても無駄です。縁を切る結末しかありませんでした。その度に心が痛み、「あのとき、もっと人の気持ちに注意して、別の言い方をしたら、結果は違ったはず」と悔やみました。
人と接するときに、言動に注意して人を傷つけないように振舞うことは一大課題だと思うようになりました。これは「修養」の一つだと言えるかもしれません。しかし、これだけではダメです。本当は、「言動に注意しなくても人を傷つけない」ようにならなければなりません。孔子が言う「從心所欲不踰矩(心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こ)えず)」もこのことに当てはまります。「思うままに言いたいことを言って、したいことをしても、人を傷つけない」ようにならなければならないのです。しかし、七十にしてはじめてこのようになれるのは遅すぎだと思います。
だから、日々努力(修身)を重ねて、もっとも自然な状態の自分を理想に近づけることが大事なことです。