昨日、家の近くの本屋さんで「文藝春秋」の12月号を買いました。そして、藤原先生の「教養立国ニッポン」を読みました。期待通りのすばらしい文章なので、感動しました。これは、日本の将来を考えての「教養のすすめ」です。明治時代の福澤諭吉の「学問のすすめ」を思い出させます。同じく日本の将来を考えて、福澤は実学を主張したのです。
「学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学をいうにあらず。これらの文学も自ずから人の心を悦ばしめ随分調法なるものなれども、古来世間の儒者和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来漢学者に世帯持の上手なるものも少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人も稀なり。これがため心ある町人百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。」(「学問のすすめ、初篇」)
当時の日本は、西洋のものを積極的に取り入れ、短期間で近代国家になりました。国民の教養のレベルが高かったおかげで、日本の伝統や芸術は残りました。「隣国」の歴史を見ると対照的です。新しい時代を迎えるために古いものをできるだけ壊さなければならないというばかばかしい理屈さえあったからです。「実学」の考え方も日本の「ものづくり」の強さにつながったのではないかと思います。日本の「誇り」の一つです。ですから、役に立つものを求めるのは決して悪いことではありません。むしろ、重要なことです。しかし、これは、教養あっての実学だと思います。「役に立つものでなければ意味がない」と極端になると、すべてがおかしくなります。教養はまさに「役に立たないもの」の代表です。これをなくしてしまうと、実学は福澤が主張した国のためのものでもなくなり、単に私利のための手段にすぎなくなると思います。
大学も役に立つものの研究しかやらなくなると、学問もだんだん面白くなくなります。「何のために量子の研究をするのか」と聞かれたら、本当は「量子のことをもっと理解したいから、奥深くて面白いから」と答えたいところですが、今では、(うそではないが)「計算や通信に使えるから」と答えないといけないのですね。「結局使えるものにならないから、やめてくれ」といわれる日もそんなに遠くないと思います。
「学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学をいうにあらず。これらの文学も自ずから人の心を悦ばしめ随分調法なるものなれども、古来世間の儒者和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来漢学者に世帯持の上手なるものも少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人も稀なり。これがため心ある町人百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。」(「学問のすすめ、初篇」)
当時の日本は、西洋のものを積極的に取り入れ、短期間で近代国家になりました。国民の教養のレベルが高かったおかげで、日本の伝統や芸術は残りました。「隣国」の歴史を見ると対照的です。新しい時代を迎えるために古いものをできるだけ壊さなければならないというばかばかしい理屈さえあったからです。「実学」の考え方も日本の「ものづくり」の強さにつながったのではないかと思います。日本の「誇り」の一つです。ですから、役に立つものを求めるのは決して悪いことではありません。むしろ、重要なことです。しかし、これは、教養あっての実学だと思います。「役に立つものでなければ意味がない」と極端になると、すべてがおかしくなります。教養はまさに「役に立たないもの」の代表です。これをなくしてしまうと、実学は福澤が主張した国のためのものでもなくなり、単に私利のための手段にすぎなくなると思います。
大学も役に立つものの研究しかやらなくなると、学問もだんだん面白くなくなります。「何のために量子の研究をするのか」と聞かれたら、本当は「量子のことをもっと理解したいから、奥深くて面白いから」と答えたいところですが、今では、(うそではないが)「計算や通信に使えるから」と答えないといけないのですね。「結局使えるものにならないから、やめてくれ」といわれる日もそんなに遠くないと思います。