道は長く、険しい。
道は果てしなく、遠い。
道は切なく、寂しい。
道は暑く、苦しい。
道は脆く、危うい。
道は荒く、恐ろしい。
道は暗く、心もとない。

パソコンのキーボードのFとJに人差し指を置いた瞬間に、無意識に書いた文字。全く頭から切り離された心の声。なんのひねりもない血の叫び。赤く黒い鉄のにおい。耳に詰められたイヤホンからは外界のみならず思考までもを停止させるくらいの激しい音。何も考えず、次の白い”無”のスペースをカタカタと文字で埋める作業。文章とは言えず体現止め。

だからこそ本物の声。

人の死は国境を越え国籍を越え宗教を越える。キリスト経だろうとイスラムだろうと仏教だろうとヒンドゥーだろうと、ああ耳が痛い音がうるさい、関係ない。そこにあるのは死の悲しみとそれを分かち合おうとする人たち。跪こうと手をあわせようと頭を下げようと口の中でどんなお祈りを捧げようと、そこに含まれる心は死に対する悲しみと残された人への同情心。3歳の子供を失った人。

外はうだるような暑さでスーツの中は汗が肌を濡らす。40℃は当然越えているし照りつける太陽は熱く、塀の中には風は入ってこない。砂埃が顔汗に付着し顔はざらつき、共に目を真っ赤にしながら別れを告げる。

夢では相変わらずそこにいるはずのない人たちが突然あらわれる。会社までのバスの中で一眠りしながら突然あらわれるその人たちにいったいなんの暗示があるのだろう。なぜそのとき自分は何もしゃべれないのだろう。朝起きてそこが現実の世界であることに違和感を感じ始めたらそれは”あの兆候”、村上春樹の読みすぎか。それだけムラカミハルキはそんな”あり得てしまう世界”を人に印象つけたということだろうか。彼の言葉と物語が乗り移っているのではなく、彼が言葉にできないことを物語にしたということか。どちらにしろ、今ここではどちらでもいいことか。

ああ問題は山積み。答えの糸口が、答えの入り口が、目の前の壁が、迫りくる追っ手が、なんでもないふりをしているはずなのに隠しきれず、夜月明かりに照らされあぶり出される。夜は短い。楽しいことも辛いこともその短い時間に過ぎて行く。ああ音の切れ間にものすごい耳鳴りが続く。

音がとまった、やばいまた思考が再開してしまう。何か音をつけて先延ばししなければ。やばい思考が、思考が。

助かった、音はまた思考を止めてくれた。この指が脳を介せずに動き出す。ところが誤字脱字には気をつけて。言葉はときに人をどん底に突き落とす凶器となる。特にパソコンには相手の顔も自分の気持ちも筆跡の暖かみも伝わらない。読み取る事はできるが”伝わる”という確証はどこにもない。太陽の光が昼間の月を消すように、この電波は人の心を消し去ってしまう。この文章は一体どんなことを伝えようしているのか。狂気の沙汰だ。激しく音が耳を打つ。酒には酔ってない。飲んでいない。ここにきて酒が飲めないそして体がくたくたになる頭がぶよぶよに膨らむ、そうするとたまに飲む酒で一瞬で酔う。しかも気持ち悪くなる。最悪だ、酒はおいしく楽しむものなはずだ。

人を愛するということが体の決まり事となり生活の一部になったことは歓迎すべきことでここ何年もそんなことがなかったから、気分はいい。そう、嬉しい。だからなおさら、今この状態が非常に、どう言うべきか、どう言ったらいいんだろう、ええいかんがえるな、そう、今、この状態がとても辛く寂しい。とてもシンプルな感情だった。言葉なんてひねり出したって良い事なんてなにもない。シンプルこそがストレートでどんな技巧よりも激しく強い。ああどうかこの文章を読まないで!自分はここでがんばらないといけないし歯を食いしばってこの炎天下の中を歩いていかなければならない。汗をかこうが体が焼け付こうが顔がラクダのように変形しようが、一歩一歩近い将来のための素地を作っていかなければならない。だからがんばります。貴方もどうかがんばってそして笑顔でまた会いましょう。砂時計はこまめに見てその最後の一粒の砂が落ちきらないうちに裏返しにしようそうすればまた新しい朝が新しい光がやってきます。頭が痛い。

これは一体どういうことだ。明日明後日これを見て果たして消去しないでいられるだろうか。とりあえずこうして今日という日が終わりやがて音楽も消えそして月も見えなくなり、追っ手や壁がまた見えない姿になって僕の無意識の中へと吸い込まれていく。