さっきネットでたまたま1月のとある日の記事を読みました。あーまだあの頃は寒かったなーと思っていると、ふとそのころにとても悩んでいたことを思い出しました。それはそれはとても苦しい時期で、両足が深い雪にはまって抜け出せないような毎日でした。ところがその記事は、まさに能天気というしかないような文面で、おもしろく、思い出した悩みとは雲泥の差。とても同じ日に起こったことだとは思えませんでした。その時突然、せーかいはせーまいー、せーかいはまーるいー、せーかいはひーとつー♪という歌が僕の頭に鳴り響きました。そしてすかさず「そんなことあるかい」と突っ込みを入れました。

「いやいや丸いのは ”世界”じゃなくて地球やし」とかそういうことではありませんね。
個人が捉える世界ってのは1つではないですよね。どう考えても。僕の生きている世界で考えた場合、辺境でも秘境でもなくどこか別の世界が確実にあって、別の種類の人たちが別のことをして生きていますよね。

まあよくよく考えると、「今この瞬間にも人の生死がある、今を大切にしよう」ということをよく言われますので今更何をと思うかもしれませんが、実際にそういう経験をすると、世紀の大発見のような気になるもんです。

自分の体は1つだし目は2つしかなく、目の可視範囲が自分の世界となります。それ以外は別の世界です。日本にいればドバイは別世界だし、ドバイにくれば日本は別世界です。

そこにネットが登場します。そういう可視範囲の世界がぐんと広がります、一見。どこにいても僅か数秒で自分の知りたい別世界の情報が手に入ります。そこには確かに暗闇に一筋の光が差し込みます。あたかも自分がそこにいるかのように、手に取るように情報を入手します。

でもそれの光は朝日ではありません。そこには真実はありません。みなさん徹夜明けに見た朝日を思い出して下さい。砂漠に泊まった事のある人や、富士山に登ったことのある人はそれを。あの、真っ暗な夜を徐々に押し上げ、大地を切り裂く慈悲深い光を。ほほに感じる自然の暖かさを。目を細めるくらいのあふれる光を。あれこそが世界です。ネットから得る情報は、所詮別世界の情報です。大切なのは、自分でその場に行って感じる事です。自分が別の世界に行って、そこを自分の世界の中に”置く”、”取り込む”、それが世界を広げる唯一の手段です。

それともう1つ、小説の世界にはまりこむこともすばらしい体験ですね。そこには映像はなく文字しかありません。目が目でなく、人は頭の中でその世界を”見”ます。その空想が深ければ深いほど、細かければ細かいほど、頭の中でその世界はもう自分の世界に取り込まれてしまうような気がします。

どんどん世界を広げて取り込んで、他の人の世界や他の文化と交わって、豊かに生きたいもんです。

今日は一日中部屋の中にいてもんもんと悩みましたが、今日の最後にそういう気分になれたことはまた明日からがんばろうて思えるいい薬でした。書くっていいですね、たまってたものが出ました。

ゆっくりでもいいから、前進、前進、前進。