こんにちは。
エリィジャパン第9回戦 音楽劇「人魚の夏」
teamハーモニー 鈴原琴音役の飯野帆夏と申します。
いよいよ明日は千秋楽となります。
人魚の夏の原作を初めて読んで、そしてこの作品に出演することになって、台本を読み、演じながらここ1、2ヶ月ほど、ずっとぼんやり考えていたことについて話したいと思います。
場当たりが終わったときに書き始めたのですが、何だかんだでこのタイミングになってしまいました。
でも、観に来てくれた大切な人たちの感想を聞いていたら、やはり自分の思いとして目に見える場所に残しておくべきだと思って、この文章をブログに載せることにしました。
少し長くて、情緒的なことも書いてあるかもしれませんが、大切なことを書いたんだなと思って流し読んでいただければ幸いです。
たとえば、青と紫の間には、藤色とかラベンダー色など、無数の青紫色がありますでしょう。
赤とピンクの間には薔薇色も珊瑚色もあるし、黄色とオレンジの間には、山吹色も菜の花色もある。
名前がつくと、漠然と続いていたグラデーションのなかに、「青」と「紫」の境界線が現れます。
たとえそれがどんなに小さい差でも、その色を「青」と呼ぶこと、「青紫」あるいは「紫」と呼ぶことの間には、確かに境目があるように思います。
人間もそれと似ているのではないでしょうか。
本来、この世に誰ひとり同じ存在はいません。
一人一人を表す名前があって、それと同じ数だけの個性が存在するのですが、私たちのなかには自分自身を形容する言葉があり、その言葉によって、私たちは自分をジャンル分けして、分かりやすく他者に説明します。
一見、分かりやすくなったように思えますが、そのジャンル分けやラベリングによって、私たちは時々、「一人一人がちがう人間である」という当たり前のことを忘れそうになるときがあるのではないでしょうか。
自分を表す言葉や概念がまだ見つかっていないという人は、案外たくさんいるのかもしれません。
あるいは、自分を表す言葉を持っていたとして、それを誰にも理解されない人や、通じなかったら怖いからと黙っている人もいるでしょう。
私も、あまり自覚がないだけで、私という個体について上手く説明する術を持たないのかもしれません。
言葉というのは、コミュニケーションに使う以上、二人以上の人間が使って初めて成り立つものだと、個人的には思います。
ですが、もし、世界で1人しか使っていない言葉を誰かが言ったとして、その意味を誰も理解できなかったとして、その人のメッセージや意思、その人の存在までが無かったことには、決してならないのだと思います。
「人魚の夏」は、そういう、自分には分からない何か、自分と違う誰かが、そこにありのまま存在することを受け入れるようなお話だと感じています。
君が何歳で、男か女か、どこから来て、何を好きか、ということを通り越して、その子のたましいの形をじっと見つめて慈しむような感じ。
あなたがどこの誰で何を好きなのか、全部知ってるわけじゃないし、全てを教えてもらえることもないだろうけど、あなたが好きだよ、みたいな。
そういう、人々の持ちうる、あらゆる輪郭を愛するような原作であり、脚本であるなと感じながら、私はこの作品を演じておりました。
いよいよ明日は千秋楽。
後悔のないよう、最後までスズとあの小学校で、素敵な日々を過ごしてこようと思います。
#人魚の夏
#エリィジャパン