打てども打てども響かぬ鐘。
鳴らない鐘を打つことに疲れた筆者は、自ら別れを切り出した。
その日は金曜日の夜であった。
突然のこと(ではないはずだが)に、会って話したいと言う夫氏。
夜は感傷的になりやすい。
冷静に話すには不適切だと判断し、夫氏の申し出を断った。
どんなふうに電話を切ったのか覚えていないが、その日は答えを出さなかった。
きっと夫氏、明日の午前中にでも訪ねてくるだろう。
翌日。
夫氏は昼を過ぎても現れなかった。
LINEすら来ない。
まさか、こんな最中にぐーすか寝てるのか?
あるいは、すでに新たなお相手探しに着手したのか?
痺れを切らせた筆者は、日も傾きかけた頃、自ら夫氏を訪ねた。
決着をつけよう。
旅行のキャンセルについても。
臨戦態勢を整えて向かった。
そんな筆者を出迎えたのは、見たことのない夫氏であった。
だらしない部屋着姿に覇気のない顔。
心なしか、やつれたように見える。
前日の昼食以降、何も食べていなかったらしい。
筆者は淡々と自分の考えを述べた。
筆者「かくかくしかじかで、今後分かり合える日は来ないと思うので、別れたい。年始の旅行もキャンセルしたい。キャンセル料は支払うから。」
夫氏「やだ。別れたくない。」
夫氏は言葉少なに異議を唱えた。
まるで聞き分けのない駄々っ子である。
普段は感情の起伏がなく、飄々としている夫氏。
初めて見せた人間らしい一面だった。
ここで、筆者にある思いが芽生えた。
夫氏は、筆者を必要としている。
筆者は、夫氏に必要とされている。
そもそも筆者は、自分が必要な人間だと思っていない。
厭世的な思想なのだろうか。
仕事しかり。人間関係しかり。
自分が欠けても成立する。
代替可能。
むしろ、そうでなければ持続可能な社会ではない。
そんな考えのもと、あまり執着することなく生きてきた。
その一方で、求めていた。
筆者を唯一無二の存在として、必要としてくれる人を。
そしていま、やっと見つけた。
こんなちっぽけな筆者を必要としてくれる夫氏。
なんと尊い存在か。
これまでの筆者は、夫氏の言動が自身の意に沿わないことに嘆き、夫氏が幸せを与えてくれないことに絶望していた。
しかし、幸せは与えられるものではない。
この尊い存在に幸せを与えること。
それこそが筆者の幸せではなかろうか。
夫氏を幸せにしたい。
こんな思考を現地で巡らせたのか、翌日友人と行ったクリスマスミサで感化されたのか、定かではない。
しかし、筆者はこの一件を機に180度方向転換し、結婚を決意するに至った。
ふと我に帰ると、相変わらず駄々っ子の夫氏。
臨戦態勢で臨んだ筆者は、簡単に退くこともできない。
この日は、再度身の振り方を検討するよう告げ、夫氏の家を後にした。
翌日。
クリスマスミサを終え、夫氏にLINEした。
筆者「もういいよ。」
別れを切り出すときも、事態を収束させるときも、同じ言葉。
「もういいよ。」
なんと便利な言葉であろう。
*****
平たく言えば、情けない男に絆された、というところでしょうか。
婚活を経て価値観の合った素晴らしいお相手と結婚しました!何の不満もなく毎日幸せ!といったブログを目にすると、おや?間違えたかな?と思ってしまうこともないわけではありません。
このブログをリアルタイムで書いていたら、「そんな人やめた方がいい!」と助言をいただけたのかもしれませんね。
などと思いつつ、結婚を決意した日から2年が経ちました。