先週、東京大学入学式で述べられた上野千鶴子氏の祝辞が大きな反響を呼んだ。
卒業生である筆者は、ただただ共感しかなかったが、これほどまで世間から注目されたのは意外だった。
東大という閉ざされた学びの園の生々しい現実が語られたこと自体が、センセーショナルだったのかもしれない。
あるいは、閉ざされた園の現実が、開かれた社会の現実に酷似していることへの驚きだったのかもしれない。
学びの園における性差別。
筆者のような小者が騒ぐことは許されても、あのように公に声を上げることは禁忌であった。
あの祝辞が大学に是認され、公表されたことは、大きな一歩だと思う。
天下取りのごとき浮かれ気分の新入生たちには、届かないのだろうと憂いつつ、思い出したことがある。
同じく東大卒の職場の先輩(男性)に言われた言葉。
「学内で縁がなかったならもう諦めた方がいい。一歩外に出たら、東大女子をもらってくれる人なんていないよ。」
「職人やアーティストに照準を合わせれば、可能性もあるかもしれないね。」
これまた突飛なことを言う。
と驚いたことを覚えている。
“愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手を絶対におびやかさないという保証が含まれています”
上野氏の祝辞の一節。
この一節に触れたいま、こう解釈できる。
東大女子をもらってくれる人なんていない。
東大女子は愛されない、選ばれない、守ってもらえない。
それは、われわれが彼らをおびやかす可能性があるから。
会社勤めをする人の多くは、履歴書を使って就職をした過去がある。
すなわち、学歴という礎の上に、社会での実績を積み上げている。
学歴において男性を上回ることは、彼らの礎をおびやかす可能性をはらむ。
職人やアーティストはどうだろうか。
彼らの礎は、技術あるいは才能。
学歴は、彼らをおびやかす要素にはなり得ない。
学歴とは関係のない枠組みの中で生きる男性であれば、”東大女子”を脅威に感じない。
これが先輩の伝えようとしたメッセージかもしれない。
いずれにせよ、筆者ごときにおびやかされるような奴はこちらから願い下げである。
守ってもらいとうございません。
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