ブログを読んでお気づきの方も多いかもしれないが、筆者は自己肯定感が低い。

とりわけ、“女性”としての自信がない。

 

 

 

割愛してしまった、私大系弁護士さん(Omiai経由、順序的には47.5人目)にもこの点を指摘された。

「話は面白いし、おしゃれだし、こぼれる笑顔が可愛らしい。」

「十分素敵なんだから、もっと自己陶酔してもいいんじゃない?」

 

対面でもLINEでも、ことごとく称賛いただいた。

しかし、筆者はそれを否定し続けた。

 

「そんなことない。モテないし。」

「私大文系女子の方がよっぽど可愛い。」

 

思い返せば、卑屈で可愛くない女だ。

 

 

 

この思想は、どのように生まれ、根付いたのか、自分でもわからなかった。

 

親の育て方が悪かったのか、何かトラウマがあるのか。

考えあぐねて思い至ったのは、学生時代を過ごしたテニスサークル。

 

 

 

 

過去の記事(22人目:東大大学院卒金融マン ―東大男子の女性観―)でも触れたが、100以上ある東大のテニスサークルのうち、東大女子が入会を許されるのは、わずかに3つ(廃部により現在は2つ)。

3つ以外はすべて、東大男子×有名女子大の女子で構成され、青田買い合戦が繰り広げられる。

 

筆者は、東大女子が入会を許された3つのうちの1つのテニスサークルに所属していた。

たびたび関東1位に輝く強豪サークルである。

 

男性は実技試験によって選考され、テニスの実力のある者しか入会できない。

一方、女性は志願すれば誰でも入会可能。

女性に求められる資質は、二種類。

 

選手としてのテニスの実力。

あるいは、選手を癒し、楽しませる接待力。

 

 

 

筆者は、子供の頃にテニスを習ったこともあるものの、実力はない。

したがって、求められるのは接待力。

 

もちろん、接待力が評価されるのは、テニスコートではなく、宴席である。

 

 

 

宴席において、女性たちは、まず年齢によって格付けされる。

最上層にいるのは、“1女=イチジョ”と呼ばれるもっとも若い大学1年生。

 

1女はテニスの強い男性選手の周りに配置される。

慣れない手つきでお酌をし、コールをかける。

 

1女「飲んで、飲んで、飲んでー♪ お・ね・が・いピンクハート

 

手を組んで可愛らしくお願いし、選手に気持ち良くお酒を飲んでいただく。

さながらキャバクラである。

 

 

 

この光景を目にしたとき、筆者は虫唾が走った。

屈辱を覚えた。

 

なぜだ。

なぜ、女性が男性よりも下等に扱われなければならぬのか。

同じ学力をもって大学に合格した我々は、対等ではないのか。

 

 

 

そんな筆者をよそに、他の1女たちはどこか嬉しそうにすら見える。

彼女たちは、ほとんどが女子校出身。

初めて、男性に愛でられ、からかわれるという体験に酔いしれていたのだ。

 

男子校と女子校の生徒を野に放つと、こうなるのか。

共学育ちの筆者には到底理解しがたい光景。

 

 

 

先輩「お前もかわいくお願いしてみろよ。」

 

筆者は、これに従えなかった。

 

 

 

テニスも接待もできい者は、淘汰されるのが常。

 

しかし、筆者は淘汰されるわけにはいかなかった。

筆者の属する理系クラスは、50人のうち女性3人。

1人は不登校、1人は「あぁ。うぅ。」というだけでコミュニケーションが取れない。

 

多くの女学生が存在するテニスサークルにおいて、同性の友達を作るまで、筆者は淘汰されるわけにはいかなかったのだ。

 

 

 

そして、筆者はサークルに存続することを選んだ。

 

宴席では、お酌をする代わりに自虐的な小ネタで笑いをとり、、お願いコールをする代わりにキレキレのダンスを披露した。

女性の格付けから離脱し、“あられ”という新たなキャラクターを構築した。

 

同性にも、異性にも、一定の支持を得た。

“女性”を売りにすることをせず、“人間”として承認されたと思っていた。

 

 

 

この時、筆者は“女性”を捨てたのかもしれない。

 

 

 

決して、所作や言葉づかいが粗暴なわけでも、男らしいわけでもない。

ただ、男性に媚び、へつらうことができない。

“女性”を売りにする者を否定したことで、“女性”を表出することができくなった。

 

 

 

筆者の無意味な自我と正義感。

それが、筆者の自己肯定感、“女性”としての自信の低さの所以である。

 

あの時、屈辱を受け入れ、「お・ね・が・いピンクハートと言えればよかったのか。

そうしたら、筆者の人生は違っていたのだろうか。