”あなたは善人ですか、悪人ですか”と聞かれたとき、ほとんどの人が「善人」とお答えになるのではないでしょうか。
誰もが「善人でありたい」と思っていて、好き好んで「悪人になりたい」とは思っていないでしょう。
一般的に「善人」とは「行いの正しい人、正直で素直な人」とされ、「悪人」とは「狼藉を働き、悪行を重ねる人」とされています。
そして私たちは、自分自身はもちろん、家族や友人・知人に至るまで「善人であってほしい」と願い、可能な限り「悪人とは関わりたくない」と思っています。
仮に、私の身の回りに悪人となるような人が現れたなら、意図的であろうとなかろうと、その人を避けるようになるのではないでしょうか。
このように私たちは、自分の都合に応じて取捨選択してしまうのです。
何年か前、ある法事の席でお話していたとき、「阿弥陀さまはどんなに悪い人でも救うのですか」と尋ねられました。これに対して私は「阿弥陀さまはどのような人でも、必ず救うと約束されています。決して見捨てることなく、常に傍にいて、私のことを見守っていてくださいます」と答えました。
親鸞聖人は阿弥陀仏のことをなぜ「阿弥陀」というのかということについて、浄土和讃(真宗聖典p.486)の弥陀経意の中で
 「十方微塵世界の
   念仏の衆生をみそなわし
   摂取してすてざれば
   阿弥陀となづけたてまつる」と。
つまり「摂取して捨てないがゆえに、阿弥陀となづける」と教えられています。もし、一人でも見捨ててしまったら、阿弥陀とは言えないのです。
繰り返しになりますが、私たちは自分の都合と照らし合わせて、様々なもの(人や物事)を取捨選択します。ですから当然、私自身も取捨選択されて、捨てられることもあります。
しかし、阿弥陀仏は私がどのような状況・状態であろうと、見捨てることなく常に私の傍に寄り添い、見守っていて下さり、摂取不捨のお心で、必ず救ってくださいます。だから今あるその「いのち」を安心して生きてください。それが阿弥陀の願いでもあります。
南無阿弥陀仏