最近、生きることに対して、目的や目標が見いだせず「何のために生きているのか」「生きていていいのだろうか」と、悩み苦しんでいる方、特にお年寄りの方に多くいると耳にしたことがあります。
私自身、来年の1月になると、前期高齢者の仲間入りです。
若い頃は「将来こうなりたい」「家族のため」「仕事で成功したい」など、色々な目標をもって生きてきました。
ところが、歳を重ねると、仕事を終え、子どもも独立し、身体も思うように動かなくなる。
すると、「自分にはもう何もない」「何のために生きているんだろう」と思ってしまう。
でも、ここで一つ考えてみたいのです。
そもそも、いのちは「何かを成し遂げるため」にあるのでしょうか。
たとえば、赤ちゃんは何の役に立たなくても生きています。また、お花も誰かの役に立つために咲いているのではありません。
朝、目が覚めて「今日も生きている」。それだけでも、いのちはいのちとして今そこにあるのです。
だから、「何かをするから生きていていい」のではなく、「いのちをいただいているから生きていていい」のです。
また、「生きる意味」と「生きている意味」は違うのです。
「生きる意味」とは、「何をすればいいのか」「何を残せるのか」「誰の役に立てるのか」と自分で意味付けようとします。
しかし、「生きている意味」は、自分で意味付けるものではなく、後々、誰かから意味付けられるものではないでしょうか。
たとえば、「何気ない一言を覚えていてくれた人がいた」とか「昔、自分がした小さな親切が、誰かの心に残っていた」など、本人には見えないところで、その人の存在によって、誰かが支えられていることがあります。
だから、「何の役にも立っていない」という思いだけで、自分のいのちの価値を決めないでください。
私たちは、どうしても「いつまでも元気で、人の役に立ち、迷惑をかけない」ことに価値を置きます。
しかし、阿弥陀仏の願いは「立派な人になったら救う」のではありません。悩んでいる人も、年老いた人も、病気の人も、何もできなくなった人も、「こんな自分では生きていてはいけない」と思ってしまう人も、すべての人を見捨てないのです。
親鸞聖人の教えでいえば、私たちは「自分の力で生き抜いていく存在」ではなく、阿弥陀仏の本願に願われ、支えられて生きている存在です。
ですから、「何かができる私だから、生きていていい」のではなく、「何もできなくなった私も、願われている。だから生きていていい」のです。
「生きていていい」と言われても、人って面白いもので、天邪鬼と言いますか、「私はそう思えないんです」という人もいるでしょう。
私だって、そういう日があります。そんな日は、何も考えず、今此処にいる自分を、そのまま阿弥陀仏の前において、「何のために生きているのか分からないけれども、こんな私も阿弥陀仏の願いの中にいる」と、それだけでいいのです。
「生きていていい」のではなく、「生きていてくれて、ありがとう」と言ってくれる人がいるはずです。
そして何よりも、阿弥陀仏は私がどんな姿になっても見捨てない。
だから、今日という一日をいただいていきましょう。
明日のことは、明日の私に任せればいいのです。
南無阿弥陀仏
