人間誰もが「幸せになりたい」と日々努力されていることだと思います。ところでその「幸せ」とは何でしょうか。
たとえば、「お金持ちになる」ことが「幸せ」と感じる人もいれば、「政治家」や「大企業の重役」のように、「地位や名声を得る」ことが「幸せ」と感じる人もいます。
「幸せ」とは、一つではなく人の数だけ「幸せ」はあります。しかし、共通して言えることは、このような「幸せ」は、手に入れたその瞬間から、それらを「失うことへの不安」に悩まされるということです。
お釈迦さまは「仏説無量寿経」(真宗聖典p.58)のなかで「田あれば田を憂う、宅あれば宅を憂う」そして「田なければまた憂えて田あらんと欲う、宅なければまた憂えて宅あらんと欲う」と述べておられます。
これは、田や宅、つまり財産が有れば有ったで、これらの「財産を失いたくない」と不安になり、無ければ無いで、「財産を手に入れたい」と悩み苦しんでいる私たちの姿を言い当てておられます。
「幸せ」も同じで、求める「幸せ」が大きければ大きいほど、普段身の回りにある「小さな幸せ」に気づけず、気づけないから「今が不幸のどん底だ」と思い込み悩み苦しんでいるのではないでしょうか。
しかし、私たちが追い求める「幸せ」とは、外的要因による物質的な欲求を満たすことや一時的な喜びでしかないのです。
このような「幸せ」について、本願寺八代目の蓮如上人は、御文の第一帖・十一通目(真宗聖典p.772)で、「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあいそうことあるべからず」と述べておられます。解かりやすく言うと「いよいよ自分が死ぬとなったときには、当てにしていた家族や財産、何一つ持っては行けないんだなぁ」ということです。このように私たちが求めている「幸せ」というのは、いつの日か私の元から失われていくものだと思います。
私たちが求める「幸せ」に対して、お釈迦さまは「自分の外に求めるのではなく、自分の内側で得られる平和や自由」こそが、「真の幸せ」であると説いておられます。
その為には、「人生には苦しみがある」(苦諦)ことを知り、その「苦しみには原因(欲望や執着)がある」(集諦)ことを知らなければなりません。その「原因をなくせば苦しみはなくなる」(滅諦)のです。そして、その方法として「八正道」(道諦)という生き方が説かれています。
このように苦しみの原因(欲や怒り、無知)から自由になることで「心の静けさや安らぎ」が得られるのです。そして自由になるためには、モノや人、感情に対する執着を手放すことです。
つまり、「真の幸せ」とは、煩悩や執着を超えたところにある「静かで深い喜び」であり、「何があっても揺るがない心」を持つことなのかもしれません。
南無阿弥陀仏