皆さんは、家族や友人など誰かと喧嘩をされたことはありますか。
我が家でも、昔、若かった頃は多少なりとも口論程度のことはありました。その頃のことを思い返すと、なぜ些細なことで口論になったのかと思います。
ある先生から言われた話ですが「喧嘩をするとき、あなたが正しい、そして、相手の人が間違っている」と。このように聞いた私は、心の内で「先生が認めてくれているから、やっぱり私は間違っていない」と、更に語気を強めたことを覚えています。ですが、先生は「あなたが間違っていると思っている相手も、あなたと同じように『自分が正しい』と思っている」と、更に続けて「相手からは『あなたが間違っている』と思われている」とも言われました。
よく戦争や争いごとになると「正義は我にあり」ということを聞きますが、「私が正しい」と正義を主張するとき、その他の全てが「間違ったもの」にしか見えなくなります。
正義の名の下に振り上げた拳を振り下ろしたとき、その正義によって傷つく者がいることを知っておかねばなりません。誰かを傷つけることが果たして正義と言えるのでしょうか。
このような私の姿を親鸞聖人は、「自己中心的な愚かさと他を排除しようとする心を、どうしても取り除くことができない身である」とおっしゃっておられます。つまり「私はいのちの尊厳と平等性を見失いながら生きている」のだと。
歎異抄後序(真宗聖典p.640)に「まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり」と、現代文では「まことに私たちは如来のご恩ということを少しも感謝することなく、誰も彼もお互いに、善いとか悪いとかということばかり言い合っている」とあります。
私たちが語る「よしあし」とは、「これは善」と決めつけると同時に「これは悪」をも決めつけてしまいます。
親鸞聖人は「何が善であり、何が悪であるのか、私は全く知らない。煩悩具足の私には何一つ真実などない。ただ、阿弥陀仏のおこころだけが真実なのです」と続けられています。
善だ、悪だと大騒ぎしている私たちを、阿弥陀仏は「えらばず」「みすてず」に必ず救うと本願を起こされています。今その本願が、念仏ー南無阿弥陀仏ーとなって、私に届けられています。
そして、この先、人生を歩む上で、喧嘩になりそうなこともあるでしょう。そんなときは、阿弥陀仏が耳元で「あなたは本当に間違っていないか」と囁いてくださいます。そのときは、「あぁ、また正義を振りかざした」と、振り上げた拳を下ろし、胸の前でそっと手を合わせてお念仏申してください。
南無阿弥陀仏