度々、日本人は「無宗教」だといわれます。皆さんの中にも「私は無宗教だから」とおっしゃる方がおられるのではないでしょうか。しかし、お正月の初詣やお子さんの七五三などには神社へお参りをし、結婚式は神社や教会で、お葬式は仏教で執り行うなど、現実的に宗教と何らかの関わりは持っているのではないかと思います。ただ、実際に「信仰しているかどうか」という意味では無宗教といえるのかもしれませんが。

さて「仏弟子として生きる」の「仏弟子」とは、文字通り「仏さまの弟子」になるということです。
仏弟子になるには「得度式」あるいは「帰敬式」を受式します。得度式とは「出家して仏弟子(僧侶)になる」ことをいい、帰敬式とは「在家のまま仏弟子(僧侶ではない)になる」ことをいいます。このとき、浄土真宗では「法名」をいただきます。
この法名は「仏・法・僧」の三宝に帰依し、お釈迦さまの教えを聞く弟子として「釋」の一字を冠した「釋〇〇」という名前をいただきます。余談ですが、人には三つの名前があるといわれます。一つ目は、親からいただいた戸籍上の名前、つまり本名です。二つ目は、いわゆるニックネーム、通り名とでもいうのでしょうか。そして三つ目が、仏弟子としての名告り、つまり法名です。
法名をいただくということが、仏弟子としての名告りであり、仏弟子として生きるということの表明なのです。そういう意味においては、生前に法名をいただいておくべきだと思います。
さて、一般的に弟子というと技能を継承するうえで、師匠や先輩・後輩という個人的な人間関係が大切になりますが、仏弟子となるとそうとは限りません。
親鸞聖人は「弟子一人ももたずそうろうふ(真宗聖典p.628『歎異抄六条目』)」とおっしゃっています。これはどういうことかといえば「私(親鸞)が自力で念仏を習得したのであれば、その方法を教えることで師弟関係ということも成り立つが、念仏は阿弥陀仏のはからい(他力)で賜ったものであるので、私もあなたもともに同じ仏弟子である」ということです。
あらためて、宗教とは「教えを宗とする」と読みます。「宗とする」とは「中心にする」ということです。そして「宗」には必ず「行」があります。浄土真宗における行とは「生活の中にありながら、念仏を称える」ことです。
仏弟子として名告りをあげた私たちの生き方とは、阿弥陀仏の教えを中心とした生活の中で、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えるところにあるのではないでしょうか。そこから今を安心して生きることのできる身を賜るのではないかと思います。
南無阿弥陀仏

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