鏡は弥生時代には日本に伝来していたといわれています。伝来当初は、顔を映し出す道具ではなく神秘的なものとして、祭祀や魔除けなどの儀式に用いられ、また、有力豪族などの権力の象徴として珍重されました。誰もが持てるものではなかったのですね。

時を経て、今ではどこのご家庭でも一つくらいは鏡をお持ちのことだと思います。そして、お出かけの際などに、髪型や服装など鏡に映る姿を見て身だしなみを整えたりしていると思います。

このように鏡は自身の外面を映し出すものとして使われていますが、どれだけ高価で一点の曇りもない鏡でも、自身の内面(心)までは映し出すことができません。

私たちは、他人のことは外面も内面もよく見えるのですが、いざ自身のこととなると「私は大丈夫」、「私は正しい」と根拠のない自信で、本心とか本性というものが見えなくなっています。

真宗の七高僧の一人に、中国の善導大師がおられます。善導大師は『観経疏』序分義の中で「経教はこれを喩ふるに鏡のごとし」と記されています。「お経は鏡のようである」つまり、お経の教えは「自身の内面(心)を映し出す鏡」であると。お経とは、お釈迦さまが私たちに説かれた真実の教えです。

自身の内面(心)を自身では見ることができないからこそ、教えという鏡が必要なのです。

お経は自身の全てを映し出す鏡であり、その教えを通して、日々の生活を振り返り、自身をしっかりと見つめていただきたいと思います。

南無阿弥陀仏