私たちが「いのち」ということを思うとき、「死んだらおしまい」といわれるような「いのち」を思うのではないでしょうか。
また、無自覚的に「私のいのち」と表現することがあります。「私の〇〇」という言葉は「〇〇」が私の所有物、私物であるということです。
では、「私のいのち」と言ったとき、この「いのち」は私だけの所有物なのでしょうか。
私たちが一般的に理解している「いのち」とは、「命(めい、みょう)」。つまり、長生きだとか短命だとか、計ることのできる「量的ないのち」を思います。それに対して、計ることのできない「いのち」があります。経典では「寿(じゅ)」と記され、「質的ないのち」を意味します。
ここで、私が生まれてくるまでの「いのち」の歴史を考えてみましょう。
両親で2人、祖父母で4人、その前は8人…と数えていくと、十世代前で1024人、二十世代前では100万人を越えます。人類の歴史、地球の歴史を考えたら、過去に無量のいのちが、バトンを受け継いできてくださったからこそ、今の私がいる。それが私のいのちなのです。
ところが、近年「いのち」がモノのように扱われているような気がしてなりません。例えば、遺伝子組み換えや、クローン技術などです。その結果、「いのち」そのものが感じられなくなっているのではないでしょうか。
あらためて、私にまで届いた「いのち」は「寿なるいのち」であると気づくことで、「いのち」が「いのち」として光り輝くのです。
その気づきをあたえてくれるのが、お念仏、南無阿弥陀仏の教えであります。
お念仏の教えを拠りどころとすることで、はじめて私のいのちが、かけがえのないものとして成就するのです。