二か月続けて、私の近況報告と申しますか、病気の話になりますが、ご容赦ください。
2月8日未明、胸から背中にかけての痛みに襲われ救急搬送されました。病院で急性心筋梗塞と診断され、すぐさま処置をしていただき、一命をとりとめることが出来ました。「運がよかった」では済まされないほど、家族はじめ救急隊や病院・ドクターほか、多くの方々のご尽力をいただき、改めて「生かされている」ということを実感いたしました。
ところで、皆さんは「生かされている」ということをどれほど感じておられますか。人によっては「私は、誰の力も借りずに、私一人の力で生きている」と断言される方もおられます。しかし、本当に「私一人」の力だけで生きていけるのでしょうか。
まず、「私」という存在そのものについても、私一人では成り立たないのです。私が存在するためには、少なくとも父母がいなければなりません。父母の前には祖父母が、祖父母の前には・・・と、つまりご先祖たちがいてくださったからこそ、今「私」が存在できるのです。
また、私の身の回りを考えてみても、私一人では何一つ手に入れることができないのです。たとえば、衣類一つとっても、私が糸を紡ぎ、布を織り、裁断し、縫製したわけではなく、何処かの誰かが、手をかけてくださった、その結果として私の手元に届けられている。このように、私は常に誰かのお世話になっていて、私とその他大勢の人たちとの関係性で、私一人が成り立っているのです。そして「生かされている」ということを思うとき「感謝する」ことを忘れてはならないのです。
しかし、その一方で「生かされている」ことを受身的にとらえてしまうと、自分の意識や思いとは関係なく「生」を受けているのだから、どの様な「生き方」をしても「させられているのだから、私に責任はない」というふうに思ってしまうこともあるのではないでしょうか。そうすると受身的に「生かされている」かぎり、自らが生きる上での責任も、また、他者と協力し合って「よりよく」生きようとする義務も感じられないのではないでしょうか。
私は、私一人で生きられるのではなく、その他大勢の人たちと関わりを持ってはじめて生きていけるのです。受身的に「生かされている」と甘んじるのではなく、「生かされている」からこそ、自らの人生に責任を持ち、他者と協力するという義務を果たし、他者に感謝することを忘れずに、自らの意志で積極的に「生きる」ことが求められているのです。
そして、阿弥陀仏は「そのいのちを安心して生きよ」と念仏-南無阿弥陀仏-となって、今もなお私に呼びかけてくださっておられます。
南無阿弥陀仏
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