最近は、コンサートやライブのチケット抽選で、「徳を積んだから当たるはず」「最近、善いことしたから運が向いてきた」などと言う話を耳にすることがあります。

もちろん、半分冗談のような、微笑ましい会話でもあります。
けれども、その言葉を少し丁寧に味わってみますと、そこには、「自分の思い通りになってほしい」という、私たちの切実な願いが見えてきます。
人は、自分の望む結果になってほしいのです。
健康でいたい。失敗したくない。嫌われたくない。損をしたくない。願いが叶ってほしい。
だから私たちは、何かを積み上げて安心しようとします。
善い行いをしたから。頑張ったから。これだけ努力したから。だからきっと大丈夫――と。
しかし現実は、必ずしも思い通りにはなりません。
どれだけ願っても外れることがあります。真面目に生きても、苦しいことに出会います。一生懸命でも、報われないと感じる日があります。
そこで私たちは、「こんなにやったのに」と腹を立てたり、「まだ足りなかったのか」と苦しんだりします。
親鸞聖人は、そのように“自分の力で人生を何とか思い通りにしようとする心”を、「自力」として見つめられました。
しかし阿弥陀仏の願いは、「思い通りに生きられないあなたを、見捨てない」という願いでした。
成功するから救われるのではない。立派だから認められるのでもない。不安になり、執着し、思い通りにならず苦しむ――そんな私をこそ、阿弥陀仏は照らしてくださる。
仏さまの教えは、“思い通りになる人生”を約束する教えではなく、“思い通りにならない私自身に気づかされる教え”なのかもしれません。
そして、その私がすでに願われていると聞かせていただくところに、念仏申す人生が開かれてくるのでしょう。
南無阿弥陀仏