お寺の掲示板 3月

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今から20年ほど前の話です。
ある朝、目を覚まして出かける前に洗面所で身支度をしていた時、ふとカガミに映った自分の顔を見ましたら、白髪を見つけました。「あっ、白髪や。そないに歳くったんか?」と思った時です。当時、子供たちが5歳と2歳だったと思いますが、私の横を走り回っていました。その姿を見て、子供たちもこれだけ成長したのだから、「自分が歳を重ねるのも当たり前やな」と知らされました。

お釈迦様の逸話に「四門出遊」というお話があります。大まかに申しますと、お釈迦様がまだ太子のとき、お城の東西南北それぞれの門の外で、老人、病人、死者、そして修行者を見て、人生の苦しみを目の当たりにして、出家する決意をしたというお話です。

このことから「生老病死」は苦であると教えられています。ここで、「老、病、死」は苦であることは容易に想像できます。
老いる苦しみ。若い時には出来ていたことが徐々に出来なくなり、思い悩む。
病む苦しみ。生活が色々と制限されたり、時には寝たきりになる。身体の自由が利かなくなり、また、思い悩む。
死ぬ苦しみ。死んだらどうなるんだろうと、不安を抱いて、また思い悩む。
では、生まれる苦しみとは。生まれてくるということは、目出度いことであるはずなのに、何故苦しみと見るのか。それは「老、病、死」の苦しみがすべて、「生」があってのことだということです。

では、何故「生老病死」が苦なのか。それは私たちの死生観にあると思います。
私たちは、気が付けば、今既にここに生きているわけであります。だから、生きていることが当たり前であり、健康で長生きするのが当たり前になっているのではないでしょうか。現にここ2〜3年でしょうか、テレビCMなどで「人生100年」というフレーズが飛び交っています。
しかし、人生100年生きる確率よりも、今日、明日死ぬ確率の方が、はるかに高いものであるはずです。

では、ここで、ちょっと考え方をかえてみませんか。つまり「生きていることが当たり前」と思っているから「老、病、死」が苦になる。その当たり前と思っていることを「死すべきいのちを、今生かさせていただいている」のだと。そう考え方を変えることで、私の身に起こる全てのことが、有難いと思えるのではないでしょうか。そう思えると、毎日が充実した日々を送ることができるような気がいたします。

当たり前と思っていたことが、当たり前ではなく、じつは有難いことであった。そのことをお念仏〜南無阿弥陀仏〜は、私たちに教えでくださっているのです。