私事ですが、先日、若かりし頃の不摂生といいますか、不精がたたって、歯周病が原因で歯を抜きましたというより、歯が抜けました。
また、お風呂に入っても、シャンプーをしますと、抜け毛も増えてきまして、老いを感じずにはいられません。
このように、歯が抜けたり、髪の毛が減ることは、不幸な出来事でしょうか。
仏教では、すべてのモノは、生まれ、変わり、やがて失われると教えています。これを「無常」といいます。ですから、歯も髪の毛も抜けたのではなく、「変化した」と捉えてみてはどうでしょうか。
とは言ってみたものの、中々受け入れられずにいる私が居ることも事実です。
本当につらいことは、歯が抜けたことでも、髪の毛が減ったことでもないのです。我が身の事実を受け入れることができずに、つらいと感じているその正体は、「昔はこんなではなかった」とか「まだ大丈夫だと思っていた」という心の抵抗なのです。
老いて衰えることそのものよりも、老いを認められない心が、私自身を苦しめているのです。これを仏教では「老苦」といいます。
今ここにある身体や心を私たちは「自分のモノ」だと思っています。しかし、仏教では、身体も心も、条件がそろって、一時的に預かっているモノだと教えています。
ですから、歯が抜けるのも、髪の毛が減るのも、「返す時が来た」だけと捉えることもできます。
若い頃は、歯も髪の毛も当たり前のように、在るべきところにありました。失って初めて、当たり前が当たり前ではなかったと気づかされるのです。
老いや衰えは、人生の終わりが近づいていることを意味するのではなく、仏さまが「そろそろ無常に気づきなさい」と肩を叩いてくださっているのかもしれません。
そして、無常に気づくことで、今この「いのち」や、私を取り巻く数多の「ご縁」が、掛け替えのないものとして見えてくるのです。
老いや衰えを嘆くのではなく、仏道へと心を向ける大切なご縁として、受け取っていただきたいと思います。
南無阿弥陀仏
