皆さんは、一日に何人の方と会話されてますか。また、その中で「相手の話を最後まで聞いた」と思える場面はどれくらいありますか。
最近「コミュニケーション不足」という言葉を耳にすることがあります。
家族の間でも会話が減り、職場ではメールやチャットで済ませることが多くなりました。便利になった一方で「自分の気持ちが伝わらない」や「相手の考えていることが分からない」と悩む人は少なくありません。
しかし、考えてみますと、昔は昔で「話せば分かる」というほど、人と人とは簡単に分かり合えたわけではありません。
私たちは「自分はちゃんと話している」「自分は分かっている」と思っています。けれども、本当にそうでしょうか。
親鸞聖人は、自らを「愚禿(ぐとく)(教行信証『総序』真宗聖典p.150)」と名乗られました。
「愚かである」ということは「知識がない」という意味ではありません。これは、自分自身のものの見方から離れられず、都合よく聞き、都合よく理解してしまう私の姿を表しているのです。相手の言葉より自分の思いを優先してしまう。だから、誤解が生まれ、すれ違いが起こります。
阿弥陀仏の救いは、そのような私を責めるものではありません。「そのままのあなたを知っているよ」と、そう呼びかけてくださるはたらきです。
浄土真宗では「聞法」ということを大切にします。「法を聞く」と書きますが、それは単にお説教を聞くことではありません。
仏さまのお話を聞くことによって、自分がどれほど人の話を聞けていないかに気づかされることです。
不思議なことに、仏さまの声に耳を傾ける人ほど、人の話にも耳を傾けるようになります。それは「私が正しい」という自己中心的な考えが和らぐからです。
コミュニケーションとは、上手に話す技術ではなく、まず聞くことから始まります。聞くということは相手を尊重することです。そして、仏さまの願いを聞くことによって、自分自身の姿を知らされることでもあります。
聖徳太子の十七条憲法の第一条(真宗聖典p963)には「和らぐを以て貴しとなす」とあります。
この「和」は、みんな同じ意見になることではなく、違いがあっても、互いに耳を傾けるところから生まれるものです。
現代は、誰もが発信できる時代です。だからこそ、「話す力」以上に「聞く力」が求められているのではないでしょか。
親鸞聖人は、歎異抄の第二条(真宗聖典p.627)で「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけまゐらすべし」と述べています。
これは「私たちは自分の力で完全に人を理解できるものではない。しかし、そのような私を、そのまま包んでくださる阿弥陀仏の願いを聞くところから、人との関わりも少しずつ変えられていく」ということです。
まずは、家族や友人の話を最後まで聞いてみてください。その聞く姿勢の中に、仏さまのお慈悲がはたらくご縁があるのかもしれません。
南無阿弥陀仏
