【第8回 滝口さくら】痛みを忘れたくない人へ。 | 早稲田大学演劇倶楽部

演劇倶楽部34期の瀧口さくらと申します。よろしくお願いします。

 

前回の飯尾さんのブログを読みまして、確かに髪を染めるのって一種の武装だよなあと思いました。私は今シルバーが落ちて金髪なのですが、金髪にしたとたん金髪ショートフェチのバイト先の人からの態度が軟化してセクハラが急増したので、「キッッショ」という言葉を送って差し上げたばかりです。ぜひ全頭ブリーチした飯尾さんにお会いしたいところです。

 

皆さんがエンクラの「記憶」について書かれている、ということで、私は「記憶」というとベルクソンコーンが思い浮かびます。ベルクソンという哲学者が考えた質料と非質料の関係図と言えばいいのでしょうか。

 

 

私が今点Sにいて、見えている世界は平面P、そして過去の経験は記憶Mとしてあらわされています。記憶は数値化もどこにあるかを明確にすることもできない非質料的なもので…と話し始めても私がボロを出しそうなのでやめておきます。エンクラの話でもないですし。閑話休題。

 

 

 

私は「生きている痛み」が好きです。好き、という言葉で言い表すのが正しいのかわからないのですが、それを見たり読んだりするとどうしようもなく身もだえして、うわあああと大きな声を出さずにはいられなくなるのです。

 

「生きている痛み」とは、ここでは数値に表せない痛みを指したいと思います。実験室で研究された痛みのような、衛生的な痛みではなく、もっと生で感じている痛み。みなさんも、心当たりがあると思います。悲しみだけではありません。怒りだって、時には喜びだって痛いのかもしれません。そしてもちろん感情だけの話でもないのです。

 

(ちなみに、痛みが定義されたのはかなり最近のことです。1979年に、IASP(International Association for the Study of Pain)によって『実際の組織損傷や潜在的な組織損傷に伴う、あるいはそのような損傷の際の言葉として表現される,不快な感覚かつ感情体験』として定義されました。)

 

最近、生きている痛みを強く感じる作品に多く出会いました。ドラマ「アンナチュラル」や漫画「マイ・ブロークン・マリコ」、小説「象を撃つ」などです(本当は枚挙に暇がありません)。私は、これらを見終わったり読み終わったりしたときにとても遣る瀬無い気持ちになります。心が落ち着ける椅子がなくなって、どこに行けばいいのと不安になるような感覚です。全身が痛くてたまらないのです。

 

きっと動物やロボットは感じない、人間が人間たるゆえんである種類の痛み。自分の痛みではないのに共感してしまったり、逆に自分の痛みは見ないふりをしたり。

 

理論では表せないような痛みは、この世に数多く存在していて、理不尽に自分の外からも中からも襲い掛かってきます。でもそれらを自分の中にため込まずに、どうにか形にすることで、「記憶には残るけど体内から出た状態」にすることが大切なのではないかと、最近思うようになりました。

 

そのときに、きっと、芸術は助けてくれると思うのです。

 

ドラマでも、漫画でも、小説でも、音楽でも、ブログでも、演劇でも。

 

確かに、痛みを抱えたままでも人間は生きていけるのかもしれません。芸術は生活必需品ではないかもしれません。でも、人間を人間足らしめるのは、こういう「無駄」に全力を捧げることができるからだと私は思います。そうして人は生きていくのだと思います。

 

最近私は、脚本を書いています。胸の痛みや怒りを形にするために。これが最後まで行くのかわかりませんが、もし完成したらその時は、エンクラで上演出来たらな、なんてことを思います。…上演までのハードルがこんなにも高くなってしまったことを、これを書きながら改めて悲しめています。「エンクラで舞台の上演をすること」が遠い夢物語のような感覚さえあるのです。これもまた、生きている痛みですね。

 

長くなってしまいました。このへんで終わりたいと思います。最後に、今見たり読んだりできるおすすめを紹介しておきます。ありがとうございました。

 

・『MIU404』TBSにて金曜夜10時~放送中。

脚本は『アンナチュラル』の野木亜紀子さんです。『コタキ兄弟と四苦八苦』というドラマもおすすめです。

・『ホットアンドコールスロー』https://seiga.nicovideo.jp/comic/49133

『マイ・ブロークン・マリコ』の平庫ワカ先生の短編です。無料で読めます。