【第6回 増田悠梨】反芻なき日々を反芻する | 早稲田大学演劇倶楽部

こんばんは。

演劇倶楽部3年代の増田悠梨と申します。

 

 

深夜2時くらいに自室でパソコンをカタカタ言わせながらこの文章を書いています。

KING & Princessの『Cheap Queen』というアルバムを聴いていて、今ちょうど「Trust Nobody」という曲が終わりました。なんとなく、この曲が今の気分にちょうどよかったので、巻き戻してもう一度聴くことにします。

 

瑛美の文章、素敵でした。

ああ、好きな文章だなって思いました。

 

ここで曲を止めました。思考と曲と文章とがいっしょくたになって、こんがらがってきてしまったからです。

でも、無音というのも少し寂しいので、また再生ボタンを押します。こんがらがらないように、頑張ります、と書こうとして、「こんがらがる」にとてもてこずりました。こんがらがらないってがらがらしてて、合ってるのか合ってないのか分からなくなります、今も少し不安ですが、こんがらないではないはずなので、こんがらがらないだと信じて先に進みます。

 

私にも、夏の記憶はあります。

きっと、エンクラの人たちはそれぞれの夏の記憶を持っているのではないでしょうか。

共同体の記憶としての、夏。

それが素晴らしいものかなんて、私には、わかりません、ましてや私ではない誰かがはかれるものでもないはずです。私たちには、わかりませんって主語を大きくしようとしていたのですが、主語を大きくして、プラスになることはあんまりないのでやめました。あくまで私、としての気持ちです。いまやエンクラがエンクラとして立っている唯一の場所となっているのだなと思うと、なんだか途方もない気持ちにもなります。

 

みなさんお気づきだとは思いますが、ここでいう夏は世間一般的な夏というものとは意味が異なります。

夏という、四季の一つを、とても狭義に用いていることに、申し訳なさや気恥ずかしさはあります。夏というものを限定的に捉えすぎなので、私にとってでさえここで言う夏だけじゃなくて、いろんな夏があるんだぜという負け惜しみみたいな気持ちにもなりますし、この言葉を用いることはなんとなく感傷的な印象を与えると思うので、面映いです。

でも、夏という言葉で曖昧にしておきたいので、どうか目を瞑ってください。私も気恥ずかしさに蓋をします。

 

瑛美たちが過ごした夏の一年前になります。

私にとっての夏は、2018年でした、「平成最後の夏」なんてそんな鬱陶しい言葉が取り囲んでいた夏でした。これこれこういう夏でしたなんて、簡単に言葉にできるような、整理整頓されたものではなかったです。言葉でまとめて自分の経験として話せるようなものだったら、ここまでややこしくいろんなことを考えないですんだのになあと思います。

確かなことは、毎日毎日、朝から晩まで顔を突き合わせていた人たちがあの夏には確かにいた、ということだけです。

 

たくさんの時間を一気に一緒に過ごした私たちは、今はもうばらばらです。あの時、あの時間をこの人たちと過ごせていたのはすごいことだったんだなって思うくらいには、見事にてんでばらばらな方を向いて生きています。

そのうちの一人である、私だって、なんだかんだ、いつの間にか、今にいます。あの夏に思い描いたその先の、2年後にいます。やりたいことをやっているのかはわかりません。少しずつ、少しずつ、見つかってきていますが、スロースターターなので、もう少し時間が欲しいなあなんて思っています。とはいえ、私を取り巻く時間はそんな悠長な感覚は持ち合せていないような気がしていて、そんな切迫感を日々感じています。

ゆるやかに重く生きています、宙吊り状態の浮遊感に、押しつぶされそうになったり、軽やかになり過ぎてしんどくなったり、しています。元気ですが、元気ではありません。

 

2020年現在、非日常を生きている我々は、あの時確かに異質で非日常だった2018年の夏とは真逆の生活をしています。

顔をすっごく近づけたり、身体を使って動きまくったり、汗をかきまくったり、叫んだりすることはもうありません、少なくとも今はできません。

オンライン上で講義を受けて、人と会って、話して、たった一人で存在しています。

それはそれで濃密ですが、濃密すぎて息が詰まります。もう少し風通しよく、存在したい。

今が非日常であることを受け止めきれていなくて、まるで日常かのように錯覚してしまう今日この頃ですが、そんな状態でも、見ないようにしていた今の「日常」の異質さがどんどん蓄積されて何かしらの膿みになっているような気がします。元の全てに関して是としてはいないので、そっくりそのまま元に戻ることを切望しているわけでもないですが、慣れることはまだできていないという自分を受け入れて、非日常は非日常として見つめておかなくては、なんて思ってます。この非日常が、今の私にとっては日常であることも今が非日常であることと同様に確かなことではありますが、慣れてしまうこともまた、怖いことだと思っているからです。ましてや、「新しい日常」なんて言葉に一体なんの意味があるのでしょう。

 

非日常を非日常として批評的な距離を持って見つめること。それと同時に、日常という言葉そのものを批評すること。

あの夏、何を考えて何を感じていたのだろうか。

今は、何を考えて何を感じているのだろうか。

 

そうやって、ぼんやり何かを思い出そうとしていると、いろんなことがうまく思い出せなくなっていることに気が付きました。

 

記憶ほど曖昧で不確かで、揺らいでいるものはありません。

記憶は、その時のままでいてくれるものでもないし、そっくりそのままとっておけるものでもありません。

記憶は、今から見たあの時の集積でしかないのかもしれないとも思います。

それでも、確かに、記憶にはぬくもりがあって、匂いがあって、質感もあって、そんな簡単に「あの時」を拭い去ってはくれません。

だから、匂いだって、なんだって、覚えているはずなのに。覚えているつもりだったのに。

 

この数ヶ月によって、たくさんの「あの時」が拭い去られつつあるような気がします。

私にとっての、日常だった、様々な情景は、今はもう簡単には触れられるものではなくなってしまって、本当に「あの時」にしかないものになりました。

記憶とは、反芻なのだと思い知らされます。反芻なき日々には、記憶はもう今に蘇って「あの時」を映してはくれないのです。

 

あれもこれも、全部全部、ほとんど全てのことを、自分の部屋でしている今のことを思います。

今、私がこれを書いているのと同じ部屋で、全てのことは行われていて、ここにある質感はたった一つで、一つの質感で、そうではなかった今までとそうである今のことを考えてしまいます。

この数ヶ月のほとんどの記憶はたった一つの情景に固定されています。それが悪いことであるとか、乏しいことであるとか、そういうことを言っているのではありません。ただただ、今が過去となった時に何が立ち上がるのだろうと不思議に思うのです。このなんとも言えない息苦しさを自分の部屋で感じていることを、ずっとずっと先のいつの日かに、自分の部屋にいながら、立ち上げることができるでしょうか。

 

情景が残ること、遠いあの日の情景を、あの日から随分経った今でも鮮やかに立ち上げられること。

高校生の時、世界が反転したように感じた現代文の授業の時に、教室に思いっきり差し込んでいた夕日。

すごく昔に見た演劇のある決定的な場面で、遠くに見える舞台では美しい照明の中、紙が舞っているという、今も焼き付いて離れないあの景色。

場の力を通して、立体的な情景が残ってくれるから、私は演劇が好きなのです。

 

 

だから、なんなんだって思います、思うのですが、こんなことを今、思っているんだ、という、そんな記録です。自分でも書いてみるまでは思ってもいなかったような記録です。

 

これを読んで、どんなふうに受け取られるのかなんて私の知る由ではないし、それはそんなに大事なことでもない気がしますが、少なくともこれはこのまま残ります。(長くてごめんなさい、とは思ってます。ここまで読んでくださった方ありがとうございます)

それが少しだけ、救いなのかもしれない、なんて大層なことを指がスルッと打ち込みました、そんな大層なこと思ってないです、書きはじめてからもう一時間が経っているので、テイのよい終わり方をしようとしてしまっただけです。

 

アルバムはいつの間にか一周して、もう一度、三度目の、「Trust Nobody」が流れています。

時間は確かに経って、流れていきますね。

 

 

それでは、さようなら。