彦火火出見(ひこほほでみ、神武天皇、181年‐248年)は、塩土の翁(おじ)から「饒速日命(にぎはやひのみこと、160年頃‐225年頃)が天の磐舟(いわふね)に乗って東の大和国に飛び降った」と聞いた。

「大和国(奈良県)は、きっと倭国(日本)の中心地だろう、私も行って都をつくろう」と彦火火出見は云った。この年は西暦204年のことであった。

 

 彦火火出見が日向から速吸之門(はやすいなと、豊後海峡)にさしかかると、珍彦(うずひこ、185年頃生)と云う海人(海部氏)が小舟に乗って会いに来て大和国まで道案内をしてくれるので、珍彦に椎根津彦(しいねつひこ、倭直の祖)と名付けた。

 

 神武天皇は大分県宇佐市和気(わき)1056の柁鼻神社(かじばなじんじゃ)に祀られている。

 神武天皇は東征の途中、周防灘から宇佐市和気(わき)に上陸したと伝わる。

 柁鼻神社の主祭神は,神武天皇の父・鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、兄の彦五瀬尊(ひこいつせのみこと)、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと、神武天皇)の三柱である。

 神功皇后(321年‐389年)が、363年の新羅遠征のための軍船築造と勝利を祈願して柁神命(かじのかみ)を合祀したと云う。

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 柁鼻神社の150m南に和気清麻呂(わけのきよまろ、733年‐799年)の「船つなぎ石」がある。和気清麻呂に因んで地名を「和気(わき、わけ)」としたのか・・・

 当時の柁鼻は海に突き出した岬だったのでしょう。岬には「鼻」と云う字が良く使われる。

 

 上陸した神武天皇を饗応したのが、当地豪族の宇佐津彦(うさつひこ)と宇佐津姫(うさつひめ)であった。

 宇佐津彦と宇佐津姫は寄藻川(よりもがわ)のほとりに一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を建て、神武一行をもてなした。

 この時、神武天皇は宇佐津姫と交わったが、従臣の天種子命(あめのたねこ、中臣氏)に宇佐津姫を妻とさせた。その結果、宇佐神宮と大和朝廷は密接な関係となる。

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 直ぐ近くに宇佐八幡宮「弥勒寺跡」がある。

 738年に建立された神仏習合時の寺院(150m四方)の跡で、国東(くにさき)半島の六郷満山(ろくごうまんざん)文化に大きな影響を与えたが、明治の神仏分離により廃寺となった。

 国東六郷は、来縄(くなわ、豊後高田市)・田染(たしぶ、豊後高田市)・伊美(国東市国見町)・国東(国東市国東町)・武蔵(国東市武蔵町)・安岐(あき、国東市安岐町)の六つの郷で、9世紀に宇佐神宮の弥勒寺に伝わった天台宗の実践の場として栄えた。

 宇佐八幡神と山岳宗教の習合により、六郷満山文化が開花した。

 

 

 弥勒寺の釈迦如来像は国の重要文化財として近くの大善寺に安置されている。

 国東半島六郷の寺院の多くの仏像は平安時代に造られ、国宝・国の重要文化財に指定されている。

 また、国東半島は安山岩と凝灰岩の産地で、多くの摩崖仏、宝塔(国東塔)、石造文化財が多い。

 

 神武天皇は岡水門(おかのみなと)へ行き家族親族と別れを告げ、安芸国(あきのくに)から吉備国(きびのくに)へと向かった。

「熊鰐(くまわに)」をご参照ください。   

 

印南神吉