延暦19年(800年)に富士山の大噴火で阿祖山太神宮は溶岩流で埋没、大宮司・宮下源太夫元秀(9世紀)は中臣藤原物部麿(7世紀)が書き写した史書を携え相模国高座郡(こうざぐん)に逃れ、相模国一之宮の寒川神社を勧請し大宮司となった。

 宮下家は相模国・甲斐国の豪族として繁栄した。

 弘安5年(1282年)に馬入川(ばにゅうがわ)の氾濫で寒川神社は流されてしまう。

 数々の災害や弾圧に苦しみながらも、宮下家は古文書を守ろうとしていたが、明治16年(1883年)に宮下家の古文書が発見され、「神伝富士古文献大成」が公開された。

 しかし、宮下文書は偽書とされている。

 

 この富士古文献によると紀元前1900年頃、「中国伝説時代」を最初に治めた伏羲(フッキ)は蓬莱山(富士山)高天原から大陸の中原に天降り、東陽婦人との間に炎帝・神農を生む。

 炎帝・神農は山海婦人との間に長男の黄帝・有熊を生む。

 伏羲、炎帝・神農、黄帝・有熊の3代を中国伝説時代の「三皇」と云う。

 黄帝・有熊の子孫は、少昊、顓頊、帝告、帝尭、帝舜の5代が続き、中国伝説時代の「五帝」と云う。

 炎帝・神農の5男と7男が東の海を渡り、蓬莱国(日本)の祖神となる。伏羲(フッキ)の孫が再び日本に戻ってきたことになる。

 

 大陸に渡った伏羲(フッキ)の次世代は「天之世」で、7代の神が大陸の地を治め、原始的な暮らしをしていたが文字を使っていた。

 次の世代は天之御中主神から15代続く「天之御中世」で、15代目の高皇産霊神(天之神農氏神)が御子に海のかなたの日ノ本(日本)に蓬莱山(富士山)があるので、行って蓬莱国を統治せよと命じ、自らも後に蓬莱国の高天原に渡来した。

 

 日本にやってきた高皇産霊神の御子は、5男の国常立尊と7男の国狭槌尊で、国常立尊を初代とする「高天原世」の7代へと続く。

 次に、天照御神(大市毘女尊、大日留女尊)が始めた「豊阿始原世(とよあしはらのよ)」の5代が続き、「ウガヤフキアエズ王朝」が成立する。

 

 富士古文献によると、その後の中国を治めた夏王朝も神農の3男の子孫、次の殷王朝(BC1750年-BC1020年)も神農の4男の子孫、次の周王朝の祖・文王は神農の次男の子孫、秦始皇帝(BC259年-BC210年)は神農の4男の子孫だと云う。

 更に富士古文献には徐福伝説があり、宮下文書は徐福が編纂したと云う。

 

 私見ですが、今のところ徐福は日本に来ていないと私は考えています。

 

 

 

印南神吉