兵庫県相生市(あいおいし)若狭野町(わかさのちょう)下土井(しもどい)73
車は南の鳥居前に停められます。
祭神 大避大神(おおさけおおかみ、秦河勝)、
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、
素戔嗚尊(すさのおのみこと)。
神社の近くを流れる矢野川は4.5km西で千種川に合流する。
千種川が瀬戸内海に注ぐあたりの赤穂市(あこうし)坂越(さごし)に当社と同じ社名の大避神社が鎮座。
秦河勝(はたのかわかつ、647年没)は弓月君の子孫で、古墳時代末から飛鳥時代の朝廷に仕えたが、特に聖徳太子(574年‐622年)とは密接な繋がりがあった。
蘇我入鹿(そがのいるか、645年没)が聖徳太子の皇子・山背大兄王一族を皇極2年(643年)に滅ぼした翌年、秦河勝の殺害を企てたため、秦河勝は海路で赤穂に逃亡した。
或いは赤穂に島流しにされたのか。
秦河勝が埋葬された坂越浦の沖にある生島(いきしま)は大避神社の聖地で、禁足地になっている。
その生島に侵入して木を伐採した者がいたと古文書に残されている。元禄13年頃(1700年)に赤穂藩の藩士が禁足地の生島の木を伐採し、赤穂城の普請をしたと云う。
元禄14年3月14日に赤穂藩主の浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介に切りつけ刃傷事件を起こしたのはその祟りだと云う。
一つの事件に対して、見る立場により様々な判断・意見・見方ができてしまう。
秦河勝は能楽の祖で、現代雅楽師の東儀秀樹氏(1959年生)はその子孫であると見られる。江戸幕臣の川勝氏、戦国大名の長宗我部氏(ちょうそかべし)なども子孫と云われる。
秦河勝は千種川沿いの地域開拓を進めたので、赤穂郡若狭野村の当社周辺にもやってきた。養蚕・機織り・酒造・土木などの技術を伝えた。
東の鳥居。社殿は東向きに鎮座。
北の鳥居、昔は参道があったのだろうが今は畦道のようになっている。
道路にも鳥居。
南の鳥居。ここに車を停められるが境内にも入れる。
絵馬殿
拝殿
本殿
本殿と境内社、右が須賀神社(素戔嗚尊)、左が稲荷神社(倉稲魂命)。
印南神吉