三穂津姫は、「高皇産霊尊」(たかみむすひのみこと、140年頃出生)の娘で、「大国主神」(160年頃-220年頃)の多くの后神の中で最後の后となる。

   

 大己貴命(大国主命)と長男の「事代主命」が高天原に国譲りを強制(201年)されたが、高皇産霊尊が大己貴命に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は高天原に対して心を許していないと考える。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神(やそよろずのかみ)を率いて永く皇孫のために守って欲しい。」と云ったので、三穂津姫は大己貴命(大国主命)の最後の后となった。

    

 出雲の美保神社(島根県松江市美保関町美保関608)に、大国主神と神屋楯比売神(かむやたてひめのかみ、和邇氏)の子・事代主神(八尋熊鰐)と共に美保津姫命は祀られている。

 

 

 但し、出雲国風土記の「国引き神話」によれば、「高志の三埼(能登半島の珠洲岬)から余った土地を引っ張ってきて、三穂の埼を造った。そこに御穂須須美(みほすすみ)と云う姫神を祀ったので地名を美保と呼ぶ」とある。

 また、出雲国風土記の「島根郡美保郷(みほごう)」には、「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ、大己貴命)が高志国(こしのくに、北陸から東北)におられる奴奈宜波比売(ぬなかわひめ)と結婚して生まれた神・御穂須須美(みほすすみ)命が鎮座しているので美保と云う」とある。

 

 御穂須須美命は大国主命と奴奈宜波比売命(ぬなかわひめのみこと)の娘で、建御名方(たけみなかた)の妹と考えられる。御穂須須美命の須須は能登半島先端の珠洲(すず)だと考えられる。

 出雲国風土記の編纂された8世紀初めには、美保神社の祭神が御穂須須美命と認識されていた。その後、美保で魚釣りをしていた事代主命と、美保の地名に似た美保津姫命が祭神として認識されていったのかもしれない。神社の祭神は変遷することがある。

 

 現在、御穂須須美命は美保神社の境外社の地主社と御穂社に祀られている。地主社は事代主命の墳墓という説もある。

 

 

 石川県珠洲市三崎町寺家4-2の須須神社(すずじんじゃ)に美穂須須美命が祀られている。

 

 

 丹波の出雲大神宮(京都府亀岡市千歳町出雲)では美保津姫命が大国主神とともに主祭神となっている。

 

 

 三保の松原の入り口にある御穂神社(静岡市清水区三保1073)にも、大己貴命(三穂津彦命)と共に三穂津姫命は祀られており、「羽衣の松」と縁が深い。

 

 

 「村屋坐弥冨都比売神社」(むらやにいますみふつひめじんじゃ、奈良県磯城郡田原本町蔵堂423)では、大物主神(大国主神)とともに弥冨都比売(美保津姫命)は主祭神となっており、大物主神の后とされている。   

 

 三穂津姫命は、大国主命の后神として高天原から稲穂を持って降り、稲作を中津国に広めたと云う。多くの妻を持った大国主大神の最後の妻であり、天津神と国津神を繋ぎ結んだ姫神であった。

 

 愛の讃歌 越路吹雪(3分15秒) 

  

 

 

 

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp