旧ブログより心機一転、日々徒然なるままに遠吠えします。
来る12月11日、本願寺の宗会議員選挙が行われ、大阪では3人枠のところ4人が立候補。正直な感想としては、誰が当選して議場に立っても、総局がすべてを決めてしまうので議会の意味がなくなっており、そんなところで議員は何も出来ることはありません。これから議員になる方は、飛んで火に入る夏の虫とやらで大変なことになるだろうと思います。議会で話し合ってどうのこうの・・・という次元の問題ではないわけで最終的には門〇制度に踏み込まざるを得ないと思っています。愛山護法、何時の時代のことを言っているのだろう。誰が誰を支持するとか何とか。あ~、もうこんなの嫌だな。選挙広報だけ見て、さくっと投票して終わってくれたらいいのにな。
ご 提 案 有難いことに月参りに行きますと、茶菓のご接待を頂くことがあります。しかしながら頂いたお菓子をその場はもちろん、健康管理上、住職が食すことはありません。そういう諸事情をお察しくださる御方は3~500円を別包みで御用意くださいます。こういった場合、賽銭収入としてお寺の維持管理費に活用いたします。諸物価高騰で少し困っております。また、聞けば雨の日もわざわざお菓子を買いに出て下さる方もおられるようで申し訳ないことでありました。いくつかのお宅宛にハガキで「お菓子の御用意は不要です」、と申し上げましたが、多分見ていないのでしょうか、再びお菓子をご用意頂いておりました。お寺からの情報はカラフルで読みやすいように工夫しています。必ず目を通していただきたいのです。正直困っております。食品を廃棄したくないのです。ご理解くださいますよう。
京都の寺院で沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の花が咲いた、と報道されることがある。しかし日本には沙羅双樹の木はない。もっといえば、双樹は対の樹のことだから、よけい変だ。平安時代から葉の形が似ている「夏椿(なつつばき)」を「沙羅の木」と呼ぶようになったようだ。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の〜」と寺院がこぞって沙羅双樹と見立てて夏椿を植えたそうだ。そして、夏椿に似ている「ヒメシャラ」という樹木がある。写真はヒメシャラである。夏椿の花はより大きくて葉っぱには皺があるのが特徴。ああ、ややこしい・・・。
土鍋ごはんの美味しさ 住職の趣味のひとつに【料理】がありまして。。。食器もそれなりの物を使うと食卓が華やかになります。道具も無論重要で、細長い柳葉包丁をシュッシュッと研いでいると感性も研ぎ澄まされ、スーパーで売っている安価なマグロも刃を入れれば細胞を断ち切っている感覚が分かり、舌に乗せた時のねっとりとした甘みは切り売りしている刺身では決して味わえません。丁寧に作ることは食材への敬意でありましょう。先日、ふと三重県伊賀市まで炊飯用土鍋を求めに行きました。伊賀は忍者のふるさとでもありますが、400万年前は琵琶湖の湖底だったそうでプランクトンの化石を含む粘土は焼成すると化石部分が焼けぬけて空洞となりそれが熱を保つ構造となり、白飯を炊くのに好都合とのこと。土と水と火と米と。料亭で出てきそうな白飯が簡単にに作れます。そういえばお釈迦様の父上は【浄飯王;スッドゥーダナ】といいます。インドでも上質なお米が珍重されていたのでしょう。堺からは車で1時間30分ほどでしょうか、【長谷園;ながたにえん】という老舗工房があります。是非お出かけください。長谷園【土鍋のある素敵な暮らし】伊賀焼窯元 長谷園です!「かまどさん」や「ヘルシー蒸し鍋」といった、炊く・煮る・蒸す・焼く・燻す…など調理に特化した、食卓を楽しむ土鍋を作っています。土鍋の楽しみ方をご紹介いたします! www.youtube.com
佛華道 お正月用の仏華を立てました。・・・生けるではなく、“立てる”。花材の買い出しから製作までかなりの時間と構想の時間がかかります。今までは我流でしたが、昨年より西本願寺の仏華全般を手掛ける開明社・花新の水本社長より直接ご指導を頂いており、新たな知見を得ました。「信は荘厳より生ず」という古の言葉があります。「仏華を見る人」から「お念仏する人」が自ずと生まれてくるよう願っております。表からは見えませんが、裏側で仕掛けを施しております。ぜひ本物を見に来て頂けたらと思います。
「師走;しわす」とは普段はおっとりしている僧侶でも歳末には各戸に出向いて読経に参じるからだ、という意味があります。・・・逆に普段はヒマな連中だと思われるのは癪ですが。盆・暮れ、というように7・8月と12月は各家庭に出向き、供養の読経を行うのが常だったようです。さりとて地域差が大きく、関西の様に月参りがあれば特段12月は意味を為しません。また「在家報恩講・お取り越し」と言われる風習が地方ではありますが、実のところ親鸞聖人の報恩講とは関係が無く、年末だから参ってもらおう、という先祖供養的意味合いが強いのが実際でありましょう。私見としては年間で最繁忙なのは8月と11月です。今年は猛暑で大変でしたが、喉元過ぎれば熱さを忘れる、ですね。
今日、11月2日は地元の小学生3年生有志が真光寺に来訪され、地域の歴史や地名の意味、お寺の歴史について学習に来られました。児童のみなさまからは鋭い質問が飛び交い、有意義なひと時となりました。上は今日の資料(先生にも配布)です。要所をかいつまみ、分かりやすく説明することを心がけました!
皆さんは仏壇や本堂の香炉にどれだけ気を配っておられますか?月参りに伺って、毎回綺麗にふるいに掛けて、この「灰押さえ」でキッチリと均しておられるのを見て、大変清々しい気持ちになります。逆に燃え残りの線香や、あろうことかチビッたロウソク、はたまた枯れた仏華の葉っぱが放り込まれている例もあります。気持ち良い心もちでお参りをするということ、御荘厳の基本のこころです。
公式LINEを用いて、掲示伝道解説や行事案内を発信してきましたが、月に200通しか登録者に配信できなくなりました。従来通りに配信すると最低でも月に5000円、年間で60,000円も費用が掛かってしまいます。月に何度も配信すると、煩雑に思われてもアレですし、何とか無料範囲内で配信できるよう、真光寺Webにリンクを貼ることにしました。どうぞご理解いただき引き続きよろしくお願いいたします。公式LINE有料化についての詳細
7月17日(祝) 海の日に開催されたお盆法要が終わりました。皆様にはようこそご参詣でございました。住職法話は・・・、 【浄土はあるのか、ないのか?】浄土は、「心」や「愛情」や「信用」と同じく、目に見えるものではないが、信頼関係の間にあってこそ、明らかになって「ある」、と言えるもの。阿弥陀如来と私の間で信心があれば「ある!」と確信できる世界が浄土です。逆に、信心を重視しない人には「無い」世界と言えるでしょう。法然上人の「月影の至らぬ里は無けれども、眺むる人の心にぞ住む」という歌を引き合いに、浄土のはたらきに心寄せて頂きました。不十分な経典理解から「有る?無い?」という実体的な議論に堕してしまう。南無阿弥陀仏から見えてくる世界を大切にいたしましょう!というお話。 今年はスポットクーラーをレンタルしての法要、少しだけしのぎやすかったのではないかと思います。と、いうのも今年は導師を務めている最中、足がつらなかったですから・・・暑中お見舞い申し上げます。
6月29日(木)午前5:30 撮影 NikonD810 80~200mmF2.8 FL ED 写真は早朝の光に限ります。
以下、一般の読者の方々には縁遠い話ですが、現在、浄土真宗本願寺派ではいわゆる【新しい領解文】という突発的・異端的・意味不明的・・・な文書について問題が継続しております。なかなか厄介なことで、「裁判」になるかも? と睨んでいます詳しいことは以下のサイトにて新しい領解文を考えてみようふと感じたのは、以前宗門で【信心の社会性】なる言葉が取り沙汰されたことがありました。念仏者は自身の心の問題にとどまらず、社会へ訴えかける方向性が生まれなければならない、というものです。この度の「新しい領解文」はその帰結なのか?と。もう一つ、厄介なことにこの問題に敏感なのは、熱心に宗学の勉強・聴聞を重ねてきた僧侶・門徒であって、住職でさえも懸念を示す人は全体の1割くらいではないか、と肌で感じます。無関心な人を相手にすることほど厄介なことはありませんね。「新しい領解文」以前の、浄土真宗とは何か、否、それ以前の仏教とは何か、という認識が決定的に欠如していた、ということが露呈しました。
面倒くさくなった浄土真宗この度の「新しい領解文」騒ぎより前から、私の加齢の影響もあろうが、宗派から発出される刊行物や声明などに対し「読み疲れる、結局何を言いたいのか分からない。面倒くさいな」と思うようになりました。 これは直近の刊行物ですが、いずれも「時代に合わせなきゃ、今までのやり方ではだめだ」という論旨です。浄土真宗の人は真面目な人がすこぶる多く、真摯に時代の要請に応じてきたように思えます。しかし、気付いた時には【倫理・道徳】の話になっています。倫理・道徳は大切ですが、信心とは直接関係のないものです。宗教が時々の人々の要請・感覚に合わせるのではなく、時々の人々が宗教に合わせざるを得ない状況・魅力を創出することを考えなくてはならないのだが。・・・真宗大谷派(東本願寺)の方々がこの点を深く理解されています。西と東の魅力度の比率は2:8だと思いますねぇ。法要も当たり前ですが門首が御導師をされ(当たり前で無いところもあるのです!)素晴らしいです。もう「信心とか後生の一大事、往生浄土・・・」なんてものは中央の人には古いのでしょう。言うまでもなく【倫理・道徳】なんてのは個人に属する問題なので、組織が号令をかけて敷衍するものではない。私は今回の「新しい領解文」はかつての【教育勅語】を思い浮かべ、今後の伏線として利用されるのだろうと読んでいます。穿った見方をすれば財政困窮の我が宗門、勅語の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉」すべく、御門主を生き仏様と崇め、財をせっせと納めーよ、と聞こえるではありませんか。今回のゴタゴタ騒ぎは、タブー(禁忌)中のタブーである【門主制の議論】に展開するだろうと思っています。「新しい領解文」への批判論者は批判の矛先を「宗務総長・総局」に向けているが、公式に門主が『御消息』として発布された以上、時期的に意味のないことです。まずは批判者の属する選挙区の宗会議員の賛・否を確認し以後の投票に反映するのが筋でしょう。また勧学・司教和上有志によって『「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)に対する声明』として、一言いいたい。 過日、勧学・司教有志の会は、このたび「ご消息」として発布された「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」(以下、「新しい領解文」)について、その文言全般を通じて、宗祖親鸞聖人のご法義に重大な誤解を生じかねないものであることを「声明(一)」において指摘した・・・(中略) 最後に、この声明文は本願寺派の勧学・司教有志により発するものであるが、その「志」(こころざし)とは、ご法義を尊び、ご門主さまを大切に思う、愛山護法の志であることはいうまでもない。と結んでいる。主張の内容は私も同意するが、最後の「ご門主さまを大切に思う、愛山護法の志」の一言に・・・何の保険をかけているのだろう、自らの立場を脅かされると考えたのだろうが、宗意安心を堅持するのが和上様の立場であるはずだが、最後の一文が”元の木阿弥”になった、と私は深く嘆いております。・・・だってそうでしょう、御門主の立場を護る、というのは「新しい領解文」を支持する、に他ならないのだから。そんな矛盾は有り得ない。批判を続けるのならば、明和法論の智暹師のように野に下るべきだ。こういったゴタゴタを僧侶内でやる分には一向にかまわない。むしろ面白いからもっとエキサイトして欲しい。何より恥ずべきは全国の門徒衆にこれ以上、失望感を与えないことだ。宗門は歴史的にいっても名も無き門徒が支えてきたのである。各寺院の住職は門徒の代表(だから蓄髪している)だ。和上方は人格者だから怖くないけど、じっと堪えている無数のやんちゃな門徒・住職の声を無視すると怖いぞ・・・。そこのところをはき違うと、宗門は一気に瓦解するであろう。・・・知らんけどな。
午前11時からは子どもの部、午後1時からは大人対象のオペラコンサートが挙行されました。ゲストは花月真先生。迫力あるオペラと仏教讃歌をお届けくださいました。
令和5年3月13日以降、政府の指針によりマスク着用は内外問わず「個人の判断が基本」となり、私は意気揚々とマスクを外し始めました。先週・今週と大きな葬儀がありましたが、大きいホールゆえ、マスクは不要と感じそのまま臨みましたが、会葬者・スタッフは全員着用しておりました。が、久々に大声を出せて爽快でありました。マスク・コロナ論は水掛け論になるから、あまり関わらない方が良いと思うのだが、そろそろ我慢の限界。住職たるもの、地域のインフルエンサー(人々の行動に影響力を与える人)でなければならない、と考え、率先してマスク無しで儀礼に臨んだ。私が怖いと思うのは、ウィルスではなくて(そもそも人はウィルスとの共存を避けられない)一個人の合理的判断が発揮できず、全体の流れに沿ってしまう思考回路が怖いのだ。ワクチンが出始めの頃は「あんな訳の分からないものは打てない」といったその人が今度は1日に300回もワクチン予約電話を掛け続けた。【赤信号、みんなで渡れば怖くない】・・・これはビートたけしのギャグらしいが、見事に日本人の思考回路を風刺している。あたかもSF小説などで、宇宙人が人間をマインドコントロールし、支配・侵略する様子を想起する。3月13日から1週間も経過しているのに、99%の人がマスクしている姿を見ていると、宗教の「洗脳」の領域だと感じる。宗教に洗脳されている人に「あなた、洗脳されていますよ」と言ったら激怒されるように、洗脳された者には最早、言葉や合理は通じない。これほどまでに自分で物事を判断することが出来ない国民性だったとは強い驚きを禁じ得ない。マスクは飛沫感染を防止するには有効だったろう、しかし次々やってくる第N波の感染ピークを抑えることは出来なかった。あるいはマスクをした施設療養中の高齢者も感染を防げなかった。これは率直にいってコロナウィルスはマスクで防御できる「飛沫感染」ではなく「空気感染」していたということの証だとおもう。しかし「空気感染」・・・すなわちマスクしたって意味ないですよ、となれば社会パニックを招いただろうから政府からマスコミにその旨通達があったと思う。つまりマスクとは衛生用品である以上、そこに疫学的な意味があるのかが問題で、人がしているから私もする、という論理は全く合点がいかない。このことは個性を重視、といいつつも都合のいい正解を求めたがる学校の教育方針にも相い通じる。 更には自己判断よりも協調性を尊ぶ農耕民族性も土台にある。「赤信号を渡ること」はユニバーサル(普遍)な誤りだ。でも、みんなで渡れば「赤が青になる」という。そうなりゃ「法」も「秩序」も成立しなくなる。私は仏法に生きる者として、自己(主体)を確立しています。自分のことは自分で管理し、歩むべき方向を判断できます。ふと、釈尊の遺言とされる【自灯明・法灯明;自らを拠り所とし、法を拠り所とせよ】の言葉を思いだす。自分の判断も出来ず、人の様子ばかりを伺い、真理に耳を傾けない者はいつまでも何者かに支配され続ける「奴隷」だ。奴隷が奴隷であることを自覚しないのが「幸か・不幸かは」あなた次第です
真光寺公式LINEからご覧の方々には、何時もご愛読くださりありがとうございます。管理者としての内々の事情ですが、現在真光寺公式LINEは無料で運用していますが6月よりメッセージ発信数に応じて有料(月・5000円)化されます。よって公式LINEの下に表示されるリッチメニューというイラストの入ったリンクからブログや真光寺Webサイト本編にリンクさせて諸々の情報発信を 出来るだけ無料で運用できるよう工夫してみます。※当件につき長野教区の西敬寺ご住職・木賣慈教様(大学時代の親友)より懇切にご教導いただきましたこと厚く御礼申し上げます。さて、今月20日には住職が大阪府八尾市の顕証寺様でご法話に出講いたします。お彼岸のひと時、仏法聴聞にご縁を結んでくださいますように。
奈良の田原本御坊、淨照寺様(佐々木智見ご住職)で第3水曜日の【古文書に親しむ】に、インスタでのご案内に飛び入り参加にも関わらずご住職より歓待を受けました。お初に関わらず御殿にもご案内いただき、ありがとうございました。ご講師には本願寺史料研究所の岡村喜史先生。全くお変わりにならないご容貌に驚嘆しつつ、ハイレベルな講義について来られる御門徒方にも更に驚嘆しました!今回の文書は、本山が絵『絵表所(免物の調進所)』に対して、最近、本山通さんと御本尊やら御文章を頒布する(町版)者どもがいるが、バチ当たりなことなんで絵表所からも全国に趣旨を徹底しておいてほしいというお達しでした。というのも、岡村先生曰く、これは子年でも文政3年と思われ水野忠邦の天保改革の頃で本山も折しも財政逼迫の難渋期だったそう。冥加金の減少に頭悩まされていた模様で、大根屋小右衛門(石田契起)、今でいう経営コンサルタントを入れていたんだとか!今と状況が一緒だ!【朝は粥 昼一菜に 夕茶漬け 後生大事に身の程を知れ】僧侶は世知に疎いところがあるのが玉に瑕。その点、覚如さんや蓮如さんらはやはり非凡だったんだなあ、と、夕闇迫る二上の山越え、堺に還ってきました。
実に分かりやすく、深い仏教入門書です。強くお勧めいたします。仏教とはそもそもどういう教えなのか、ふと総代さんに尋ねられました。咄嗟に応えることが出来ませんでしたが、この本をテキストとしてお渡ししようと思います。 株式会社 KADOKAWA 刊 1200円
専門的な話ですが、このたび新しい【領解文】が発布されたことで、さっそくTwitterとかで反応が出ているようです。・・・ま、宗門の混乱は避けられないでしょう。宗会も勧学寮(学問権威)でさえ、手も足も出まい。『領解文(りょうげもん)』は『改悔文(がいけもん)』とも呼ばれ、本願寺第八代蓮如が真宗における信仰の在り方を示すために作成した、いわば「訓示」です。 新領解文宗門という組織・門主制の中で、私が如きの分際が考えを述べることは甚だおこがましいのですが、・・・何というのでしょうか、・・・分かりやすさ・平易さを追求されてのことだと思いますが、この流れでは『御文章』はおろか『正信偈』や『恩徳讃』もすべて「現代の話し言葉」に置き換えられるのではないか、と危惧します。私は宗教の根源箇所に「分かりやすさ」は要らないと思っていまして、「分からないのだけど、尊いと感じる」ことがポイントだと考えます。内容を伺うと、最初の2行は浄土真宗かな?と思うが、中程には中世封建主義的な「歴代宗主の尊いお導き!」とあり、後半は道徳観念が羅列されます。歴史や道徳で悟りは得られません。・・・いずれも「信心とは関係のないこと」ですから。・・・現場では、ただでさえ人口減・参詣者減・収入減・寺院への関心減などマイナス要因ばかりで困窮しており、現代に即した様々な試みを行っておりますが、対症療法ではどうしようもなく、不安・暗雲が増すばかりです。ご門主もお立場上、大変なご不安を懸念されているものと拝察いたす次第です。・・・散文、失礼いたしました。
本願寺堺別院では上記の如く、お餅つきフェス(祭り)を開催いたします!住職は堺別院で『楠証会』という若手団体の会長を仰せつかっております。コロナ禍で行事中止が相続く中ですが、広い境内での行事です。どうぞご参加くださいませ。