(2020/10/02 記)

 

今年の3月末ごろ、新コロナ禍が無ければ本来、そのあたりに開催されていた

高校の学年同窓会開催連絡のためにやりとりをしていたLINEグループで、

高校2年で関東に転校して行った人物が、今や毎週、「週刊朝日」表紙グラビア
を撮影しているプロカメラマンになったことを知りました。

 

凄い人物が居るものだなあと感心し、その彼の知り合いが京都で写真展をする、

という案内をそのLINEグループに彼が出していたので、個人LINEにアクセスして

みて、その彼の写真道のルーツが天体写真だって話に至り、エキサイティングな

やりとりになりました。

高校時代は全く接点がなく、転校した話も当時は知らなかったものの、彼が中学

のアルバム(私は関東幽閉からの帰還時にあふれた身の回りの物と一緒に

処分してしまった)からの画像を「これですよね。僕はこれです。」とスキャンデータ化

してくれたものを見た後、お風呂入ってて「馬場くん知らんなー。あ、でも1974年の

金星食の写真を交換した別クラスの男子居たよな?」と思い出し、押し入れを

ごそごそやってずっと処分できなかった何枚かの天体写真をスキャンして翌朝、

これどう?ってLINEで送ったところで、双方の欠けていた記憶が甦って、

お互いに「おおおー」となったのが、この彼のFACEBOOK記事でした。
  

 

当時まだ私はFACEBOOKにアカウントがなく、LINEで送って貰ったもので、今回

この記事を書くにあたり、掲載許可を改めて貰ったものです。

 

FACEBOOKにアカウントを持って、彼の記事を拝見すると、物凄い人数の各界の

著名人、企業の上層、クリエイター諸氏のフォロワが居られます。

(この記事だけについても、2020/10/02時点で460件の「いいね」がついています。)

過去に日数で言えば、すれ違っただけのご縁かもしれませんが、その人が

才能と努力でまばゆいばかりの成功を収められていると知って、こちらまで

嬉しくなります。

 

で、その時には当時私から彼に交換で渡した何枚かの天体写真の所在が分からなく

なっていましたが、先日、記憶と全然違う目の前の棚からそれが出て来て、ネガ

だけでなく、後年に白黒プリントしたものも一緒に出て来ました。

それらをスキャンして画像化しました。

 

彼の画像と同じく1974年の金星食です。

 

 

撮影後に結果を見て、金星の単位面積輝度が一番高いのだから、普通に月を

撮ればよかったのに、それまで金星を撮ったことがなかったので、過剰露出に

してしまい、全体が露出オーバーになったのをがっかりしたのを覚えています。

(当時はまず撮影が無事終わった達成感が先にあり、銀塩フィルム撮影の結果が

DPEから戻ってきて、そこでがっかりしたり、期待通りだったりの二週間規模の

悠長な感じがありました。)

が、こうやって画像に残せたので、その想いも含めて当日の情景や感動は
頭の中で補正されて蘇らせることができるのでした。

 

それから3年後、後年1977年に自作曲「Eclipse」の原曲をメモに残しました。

それは1993年になってようやく完成するのでしたが。

 

https://big-up.style/musics/421301

 

 
映像に残すことは天体画像に限らず、とことん今までこだわって来てよかった、と

思うことが多いです。今では画像を見ない限り思い出せなくなっているイベントも

沢山ありますので。
 

その1974年より以前に撮った恐らく同倍率での土星です。

単枚撮影でここまで輪が分離しているのは、今見ても自分で驚きます。

 

 

1974年より前に撮った様々な位相の月全景からのセレクトです。

 

 

  

金星食は1974年でしたが、他の写真は自身のベスト集の一部として、小6ごろ

(1970-1971年ごろ)に撮ったものを、今で言うところのポートフォリオ(本来の

意味での。株式用語でなく)として、それらを彼に渡したのでしょう。

確か秋に連続で20日以上の晴天が続いて、月が細いうちから満月を経過して

下弦に至るまでを同一のネガに収めたものと、その時期に見えた土星をセレクト

したのだと思います。

 

http://ww81.tiki.ne.jp/~yumarin7/oldtelescope.htm

 

(貴重な骨董望遠鏡情報の公開をありがとうございます。)

 

このページの「プリンス光学TM-I」というモデルか、それに近かった60mm口径の

屈折経緯台式望遠鏡(微動装置なし)とオリンパスペンF(ハーフサイズでコマ数

が倍も使えるも、カメラレンズを外して写す間接撮影法だと像の大きさは同じで、

無駄な背景にとられる面積が減り、少ない小遣いに貢献)で撮ったものでした。

 

大阪梅田の阪急三番街に当時はあったカメラ屋か望遠鏡屋かにあった、

他とは一線を引く優美な曲線の鋳物で造られた経緯台(他機種は板金工作)の

立派な印象に2年越しで「先に誰かが買わないか」と不安になりつつ、それを

手にした日の喜びは、それまでの理不尽もあって一生忘れることはありません。

 

(ついでに言及しますと、人の親になり、その一人息子が結婚して既に独立した

今も「子供の才能の芽を親が無理解のまま、無残に摘み捨ててしまうことは一切

しない」との、常に存在全肯定の教育方針を貫いたつもりで居ます。その息子は

この父親の遥かに頭超えの学歴とその後を歩んでくれています。それは私自身

がその真逆の理不尽ばかりを感じながら生き延びて来たことが背景にありました。)

 

二枚玉アクロマート(ノンコート)レンズ機だったものの、F16(焦点距離1000mm)

という長焦点機だったので、色収差もほぼ無く、入手して翌年迎えた1971年の

火星大接近時にまざまざと見える「黄金位相」の見映えには息を飲みました。

(また偶然にも、その初めて火星をそれで見た夜に「黄金位相」だったのでした。)

 

同時代に別の友人が持っていた、Vixenかどこかの100mmニュートン式反射

望遠鏡より火星の模様が良く見えたのを記憶しています。

特に望遠鏡選びの知識もなかった当時、偶然、この良質な製品に巡り合って

いたのが、その後を決める大きな分水嶺でもあったのでしょう。

 

望遠鏡もカメラも母親に何年もかけて泣いて拝み倒して、次のテストで良い点数を

とったら、とかの条件を機嫌の良い時を見計らい納得させて入手したものでした。

親はこの趣味に何の価値も感じず、また達成感とともにこれらの成果を見せても

「それが算数の何点になるのか?」と食って掛かり、「うまく出来たと言っても

軽々しく言うものではなかった」と萎縮したりしたものでした。


おだてられたら木にも登る性格に生まれた私なのに、常に全人格否定、存在否定と

戦いながら、11歳、12歳あたりから今まで半世紀、同じことを続けていた訳です。

 

なので、2003年から始めた「銀次の部屋」で、同じ趣味の人が掲示板に集ってくれた

のは、今振り返ると私の人生では珍しいことで、嬉しいことでもありました。

 

http://sigkam.web.fc2.com/

 

 

ライフワークと信じる作曲創作を棚上げしても、惑星撮影に価値を感じるのは、

そのような長い経緯があってのことでした。

 

 

 

ご覧いただきありがとうございます。