ダブリン、リバプール:ぼくの音楽は何からできている | アキートのブログ

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京都市中京(なかぎょう)区生まれ、現在北区在住で元大学教授のアメリカ文化研究家です。
アメリカの風俗・音楽・映画・料理などや
”京のまち”の 日常、今昔 について思いつくままに書いています。
どうぞお楽しみください。

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アイルランドのリバプールと、イングランドのリバプールの位置関係をもう一度見てみましょう。

 

 

 

ダブリンとリバプールはアイリッシュ海を挟んでほぼ同緯度の対岸に位置しています。

 

現在はフェリーが8時間で両都市を結んでいますが、1840‐50年のポテト飢饉の頃もアイルランドから一番近い大都市として、多くの人たちが向かった場所だったのです。

 

その頃のリバプールやマンチェスターは産業が栄え、働き場所を求めてアイルランドから多くの移民が押し寄せました。

 

食料を盗んだ罪で、監獄船に載せられオーストラリアに送られた人たち、かなりの資産を持っていたためカリフォルニアのゴールドラッシュめがけて直接アメリカへ船出した人たち、もありましたが、このルートの移民がいちばん多かったのではないでしょうか。

 

取りあえず、対岸のリバプールに渡って、仕事を見つけ、資金をためてからアメリカに向かおうとした人たちです。

 

 

 

古い話で恐縮ですが、2013年12月26日付のブログ「アイルランド第2の故郷リバプールとトビートルズ」で以下のように書いています。

 

”京都在住のスコティッシュ・フォーク・シンガー、レズリー・デニストンさんと話している時、たぶんビートルズがきっかけだったと思うが、「彼らの出身地リバプールはアイルランドの第2の故郷と呼ばれている」と言われた。え、何で?と思いその理由を聞いてみると、例のポテト飢饉の時多くの人たちがアイルランドから一番近い対岸の工業都市リバプールに仕事を求めて渡りそこに住みついたからということだった。”

 
 
 
時代は下って、帆船は蒸気船になり、北米大陸と南米大陸の間にパナマ運河が開通し、またアメリカ国内でも大陸横断鉄道が開通するなど交通事情は劇的に変化していきました。

 

リバプールで資金が調達できた一部のアイリッシュはニューヨークから、パナマ運河を通ってサンフランシスコに向かい、また大陸横断鉄道を使ってシカゴへ向かいました。

 

でも、夢に挫折してリバプールに残った人も多くいたことが、リバプールがアイルランド第2の故郷と言われる所以なのでしょう。

 

 

アセンライ⇒ダブリン⇒リバプール⇒ニューヨーク⇒サンフランシスコ(カリフォルニア)がやっとつながりました。。

 

 

(サイモンとガーファンクルでヒットした "Scarborough Fair" の原曲はイギリス最古のバラッドだと言われています。

数世紀を経て、カリフォルニア在住の少女たちにアイリッシュ風に歌い継がれているのは、ある意味、感動ですね)

 

 

Hope you folks like this.