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いや、本当の天才なんていうのは1%もいないのだと僕は思う。いろんな分野でトップクラスで活躍している人はたしかに才能には恵まれているだろうが、それ以上に努力を怠っていない。
というと、たぶんまあ世の中の半分から3分の1くらいの人はそうだよなあと思ってもらえるのではないだろうか。
ところで、日本の大学のあり方には批判が多い。その中でよくあるのは日本の大学はもっと多面的に人物を評価して合格させるべきじゃないか?日本の受験戦争は異常だ。みたいな話がある。まあ、最近はお隣の韓国や中国などのアジアの国々ももっと恐ろしい受験熱の話も伝わってくるり少子化でそれほど大学に入ることが難しくなくなってきているのでそういった話も減っている面もあるだろうが。それでも繰り替えすが大学入試の基準を変えるべきだという意見はちらほらみる。世界で戦えるエリートを育てるためにはそのような選抜制度・教育制度が必要だというのだ。
日本の教育制度は劣っていると。
しかし、本当にそうなんだろうかと僕は思う。日本が世界でトップクラスの経済大国であり続け、日本企業が世界でこれだけ活躍し、日本文化もどんどん世界に受容されている時代に日本の教育制度はそんなに劣っているのだろうかと。
先日ブロゴスでもこんな記事があった。
目指すのは米国型入試? 日本で本当に可能か ‐ 斎藤剛史
しかし、それよりも重要なのは、大学入試に関する考え方の違いです。優秀な人材を選ぶことを重視する米国の社会には、多様な志願者を同一基準で判定する必要はないという考え方が根底にあります。一方、日本の社会は入試の平等・公平に極めて敏感です。「人物重視の結果、不合格」と言われて、受験生や保護者は耐えられるでしょうか。今回の大学入試の改革は、こんな日本社会の価値観の転換を迫ることも意味しています。
詳しくは全文を読んでいただきたい。
たしかに日本の教育制度は学力という単一の尺度を用いている。しかしこの記事にあるように大多数のアメリカの大学でも状況は似たようなものらしい。
そもそも、学力とは何かといえば地頭+努力できる能力だろう。地頭がいいことは基本的には社会で成功することに必要な要素だし、努力することができることも社会で成功するのに大いに必要な要素だ。しかも、大学は少なくとも学問をし研究する機関であるというのが大前提であると考えれば、学力という尺度で選抜することに何か問題があるのだろうか?
しかも上述のように受験勉強でやり方をいろいろ考え工夫しながらやる、そして努力するというのは冒頭で述べたように99%以上の凡人(せいぜい秀才)には人生で成功するには(運が良かったとかを除けば)それしかないとうい要素である。
研究という大学本来の目的からも人材の育成という目的からもやはり学力重視の公平な選抜というのは特に問題があるようには思えない。
もちろん、多様な人材を探すという要素も重要であることを否定はしない。しかし、すでに私立大学(一部では国公立でも)スポーツ推薦という制度がありスポーツが優秀な学生が大挙して大学に入っている。またその多くは就職市場で有利にたっている。
もちろん、AO入試や指定校推薦の制度もある。スポーツだけでなく芸術分野で優れた人には美大という選択肢もある。
すでに日本においては多様な人材の選抜は十分に行われているという風に僕は思うのだがこれは間違いなのだろうか?
面接や高校時代の素行で人物を大人が選ぶという方が僕には恐ろしい。マニュアル本が出回るだろうし、高校時代から教師に媚を売って生きなければならない世の中になるだろう。そんな世の中・青春時代を皆さまはお望みなのだろうか?
また高校時代を通しての一貫しての成績で入学が決まるというのもむしろ優等生ばかりを作りそうで怖い。高校3年まで、あるいは2年までは遊んでいても部活ばっかりしていても最後の1年や浪人で一気に巻き返して東大に入る。そんな人物を評価する現在の制度にも魅力は十分あると思うのは僕だけではないだろう。
大学の問題は入試のあり方の問題ではなくて補助金に甘えている大学(名ばかりの)の問題だと僕は思う。そのせいで一部のトップクラスの大学にまで批判がいくのはどうかと僕は思う。
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