自由社会は格差を拡大するのか?-2 | ロンドンで怠惰な生活を送りながら日本を思ふ 「東京編」

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ロンドン・東京そしてNYといつの間にかいろんなところを転々とそしてまた東京に。海外なんて全く興味なかったし今もないという予想外の人生でした。今は東京に戻りしばらくお休みしていましたが少しずつ再開してみようかと思ってます。よろしくお願いします


さて・・・

前回 はハリウッド・スターに関する研究結果を引き合いに、人間は本質的な性質として自分と同程度の頭のよさを持った相手に惹かれ結婚するのではないか?という論を展開した。

僕はこの事実は格差拡大と強く結びついていると考えている。そのことについて今日は述べていきたい。(以下、全て例外はあるだろうが、平均を取ればそうなるだろうという前提に基づいて話す)

完全に自由な社会、そしてより選択肢が多く得られる社会では人間は自分と同程度の頭のよさを持った人間をパートナーとして選ぶ。そうすると、その子供たちも親と同程度の頭のよさを持つことになる。そして、それが続いていくと、親の頭の良さによって社会の階層化がどんどん進んでいくということになるだろう。より自由な恋愛が許され出会いの場も多くなっている現代社会においては、その効果はより強まることになるだろう。


頭の良さが相当程度、その人の所得に関わってくるとすればその階層化は収入と関係性を強めることになる。


では、より不自由な社会ではどうだったのだろうか?と少し考えてみよう。

たとえば、少し古い時代ならば、金銭的な理由などで高校や大学に行けなかった人もたくさんいただろう。だから、学歴は必ずしも頭のよさを表すものではなかったはずだ。だが、現代よりも親が結婚により関与した時代で、相手の家がどういう家か・一族や兄弟はどんな人間かというのがより判断材料として重要視された。このことは何も古臭い非論理的な習慣というだけではないはずだ。遺伝というものがある以上は相手の家族や代々の祖先が何をしてきたかを知ることで結婚する二人ががつりあっているかどうかを測ってきたのだろう。そして、その中で同じ程度の頭脳レベルというのも明確ではないにせよ含まれていたのかもしれない。(お互いの家が釣り合うかどうかが意識されたはずだ)

学歴というシグナリングが強くなかった時代には相手の家を巻き込んで結婚相手の判別を行ったといえるだろう。そしてそれは家という論理が強い非合理な行動ではなく、結婚する二人が幸せになる確率がより高くなるように、そのためにたとえば頭のよさが釣り合うようにとの経験則があったのかもしれない。

しかし、学歴というシグナリングが弱い時代、かつ、出会いの場がそれほど広範になくお見合いなどが主流であった時代には自分と同程度の頭のよさを持った相手を選ぶことはそれほど簡単ではなかっただろうし、学歴や頭のよさが人生における所得を現代ほどには決めなかったであろうから、上記のようなあり方が格差を固定化し拡大する効果はそれほどなかったかもしれない。

しかし、現代社会はなんと言っても学歴社会である。それは日本のみならず世界中でそうだ。そして、学歴というのは親の財産や家柄にはあまり関係がない。だから、学歴社会は少なくとも能力があり努力さえすれば誰でもより活躍できる(ベストではないにせよ)より公平な社会ということができる。

そして、学歴は頭のよさ・能力の高さを示す指標として現代社会では非常に重要な一種の資格となっている。

「人間は同じような頭のよさを持った相手と結婚する傾向がある」・「そして、そのことは自由社会において格差を固定化させる」という命題に立ち戻ろう。学歴は結婚においてもシグナリングとして重要な役割を果たす。そうすると、学歴という相手の頭の良さを判断する強力なツールが登場したことで、ますます自分と同程度の頭のよさを持った人と結婚という可能性は高まっているだろう。(なんとなく自分と同じ程度の大学を出ていておいてほしいと思ってしまう人(特に女性)は多いはずだ)

すなわち、ただでさえ、自分と同程度の頭のよさを持った人と結婚する傾向が強い人間が、学歴という判別ツールが整備されてきたがためにその傾向がさらに強まっているといえるのではないだろうか?

その結果、学歴≒頭の良さに基づく、格差の固定化・拡大が強まっていると考えるのは考えすぎだろうか?

もちろん、社会がより自由になっていることや知能労働が増えたことによる学歴と所得の関係性の強まりもその原因であることは言うまでもない。一方で頭の良さだけで結婚相手を選ぶわけではないのは事実だから、大げさに捉えすぎだとの反論も大いにありうるだろう。

いずれにしても、自由社会は格差を拡大させるということが言えるのかもしれない。しかし、それが人間の根本的な性質からきているものならば修正することは相当難しいだろう。一方で、機会の平等や教育は素晴らしいという美名の下に教育に過剰に補助金をつぎ込み学歴偏重の社会を政府が一丸となって作ってきたとすれば、実は格差を拡大させているのは格差を和らげる政策を行うべき政府であり、(機会の)平等を叫び続けるサヨク的な人々であるかもしれないというのは皮肉な事実といえるだろう。


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