二の丸にやって来ました。

 

ここのお城はいわゆる

 

◯◯の丸

 

と、

 

◯◯の平

 

と二つの言い方の構造になっているようですね。

 

二の丸はかなりの敷地面積が取られています。

 

二の丸から大手門を見ると段々の作りになっているので、

 

一番下に白い土塀が見えます。

 

なぜか急に猫の置物が現れました。

 

二の丸から見上げると左から

 

七の平櫓

六の平櫓

 

本丸南御門

 

五の平櫓

 

と見えています。

 

まだ本丸には向かわず一旦東側にぐるりと回ってみようと思います。

 

石垣が鋭利にカーブしています。

 

少し進むと搦手門跡があります。

 

いわゆる裏門ですね。

 

 

こちらは通路も細く、入り組んだ作りになっています。

 

木が生えていますが、ここにも楼門があったのでしょうか。

 

反対側を見てみると断崖絶壁に櫓が建っています。

 

ここから見ると、あってもおかしくない

 

石落とし

 

の張り出しがないですね。

 

さらに進んでいくと

 

十の平櫓跡。

 

たくさんありますね。

 

このようにあまり広い敷地は取れていません。

 

だから数を沢山作ったのかなあ。。。

 

水の手門跡。

 

特に説明番などはなかったのですが、井戸でもあったのかな。。。

 

特に井戸も見当たらなかったですね。

 

ここから奥は山道になっています。

 

どうやらこの先に他の山城があるようです。

 

今回は時間の都合でここから本丸の方に戻る事になります。

 

続く。。。

土塀を過ぎると

 

四の平櫓跡

 

です。

 

ここのお城にはかなり多くの櫓があったようですね。

 

敷地面積はそんなに広くないので、ここに櫓があったとしても中に入れる人の数は

 

ほんの数人だったのではないでしょうか。

 

そしてそのすぐそばには

 

 

 

厩曲輪。

 

流石に馬なので櫓よりも広い作りになっています。

 

でも、馬が走り回るには少し狭いですね。

 

土塀も張り巡らされていますので、覗いて見ると。

 

しっかりと狙撃できそうです。

 

当時の鉄砲はどれくらいの命中率だったのでしょうか。

 

曲輪跡の土塀が無い所から下も見えますが、これではやはり下から狙い撃ちされますね。

 

四の平櫓から右に行くと独立した厩曲輪ですが、

 

左の本丸側に進んでいくと

 

御膳棚

 

という所があります。

 

これは調べても分からなかったのですが、おそらく台所でしょう。

 

なぜ棚の文字が使われたのかは謎です。。。

 

今はトイレが作ってあります。

 

これだけのお城なので台所も広く場所が取られていますね。

 

お城に石垣はつきものですが、ここが一番古い石垣のようです。

 

野面積み。

 

あちこちのお城で見ることができます。

 

これが数百年前から存在しているのがすごいです。

 

いよいよ本丸が見えて来ました。

 

霧で霞がかっていて雰囲気出ていますね。

 

二の櫓門跡。

 

さっきまで

 

 

の字が使われていたのに、急に二の櫓になりました。

 

何か違いはあるんでしょうか。

 

奥と手前で高さが違いますが、ここに櫓門があったことになりますね。

 

階段の一番上の段の敷石が奥と手前の二分割されているのがわかりますか?

 

扉が2枚ついていた事になります。

 

時代劇で使用人などが出てくるのが手前の小さい扉の方ですね。

 

これはおそらく鏡石かと思われますが。。。

 

場所的にずいぶん控えめな所に置かれています。

 

もしかしたらこの先にもっと大きな鏡石があるのかもしれません。

 

(鏡石とは城主の権力の象徴のようなもので、登城してくる人に力を

 

見せる意味がありました。大阪城の鏡石などが有名ですね。)

 

続く。。。

お城には外敵から守る為に壁に攻撃するための穴が開けてありますが。

 

この土塀にも

 

ずらりと穴が空いています。

 

 

階段を登った所から振り返って見ると、

 

段々畑のように石垣が組んであり、

 

なかなかに、かなりの要塞です。

 

切り立った山の上に築城している上に、石垣に細かく凹凸を作ることで

 

死角をなくしていますね。

 

地形を活かした見事な造りです。

 

土塀を登り切った左側に

 

三の平櫓跡があります。

 

現存はしていませんが、敷地は広めにとってありますね。

 

その反対側には足軽番所。

 

まだ少ししか登って来てませんが、もう番所が二つあります。

 

その横に

 

上番所。

 

もあります。

 

この三の丸を挟んで

 

足軽番所

上番所

 

が建っていることになります。

 

三の丸、かなり広いですね。

 

かなり年季の入った看板です。

 

ここまで来てわかりましたが、あの綺麗な土塀はどうやら現存しているもののようですね。

 

とても綺麗に保存されています。

 

三の丸を後にして、この緩やかな階段を登ると

 

二の丸があるはずです。

 

黒門

 

に到着しました。

 

くろもん

 

でしょうか?

 

多いのは

 

くろがねもん

 

ですが、どう違うんでしょう。

 

左右に櫓が建っていたであろう石垣が組まれています。

 

ここに黒門が建設されていたんでしょうか。

 

続く。。。

大手門まで来ました。

 

車を降りて10分ちょっとですかね。

 

右下に大手門と書いた石柱があります。

 

かなり威圧を感じる大手門ですね。

 

この石垣の両サイドに櫓があったと思うと、とても攻略できそうにないです。

 

石垣の高さが微妙に変えてあったりしますが、

 

これも死角を作らない為だとか、色々理由がありそうです。

 

なぜかは書いてありませんでしたが。

 

石垣も素晴らしいですが、地面から飛び出している天然の岩石も

 

うまく利用されています。

 

このお城は2016年放送の

 

真田丸

 

で使用されたようですね。

 

足軽箱番

 

左下が上図の石柱です。

 

登って見ると。

 

小さな敷地がありますね。

 

ここに足軽兵が待機していたのでしょう。

 

見回りなんてしてたのかな。

 

反対側には。

 

大手櫓です。

 

こちら側には大手櫓。

 

向こうに足軽箱番。

 

使用方法が異なる櫓があったようです。

 

大手門を抜けると、

 

二の平櫓跡

 

があります。

 

切り立った山に築城されているので、監視用の櫓がたくさん作られたんでしょうか。

 

そんなに広くありません。

 

本丸に続く土塀です。

 

長いですね。

 

画像右側が本丸。

 

左側が傾斜になっています。

 

敵を迎え撃つ用の穴がたくさん空いています。

 

次回はこの先を進んでいきます。

 

続く。。。

岡山県。

 

備中松山城に行って来ました。

 

ここは電車でも行けなくもないですが、最寄駅からかなりあるし、かなりの山城ということもあり。

 

レンタカーで行きました。

 

この写真は運転席から撮っているんですが。

 

パラソルの下に見えているおじ様にここで止められるんです。

 

山道なので車がすれ違えないので片側通行なんです。

 

下の図の右上の赤字(城見橋P)と書いている所が待っていたところ。

 

画像真ん中にある鞴峠(ふいご)と書いているところが最後のパーキングです。

 

この看板があるところですね。

 

この図で見るとかなり細長いお城のようです。

 

駐車場からお城に向かう道はこんな感じです。

 

山道です。

 

お城に行く道は石階段ですが、舗装されています。

 

排水溝も走っているのでかなり保存状態を考えられているようですね。

 

石階段をしばらく登ると石垣が見えて来ました。

 

中太鼓の丸跡

 

です。

 

しかし、ここにある石碑には

 

上太鼓丸

 

と書いてありますね。

これはどういうことか、看板に書いてありました。

 

古文書や絵図などには

 

上太鼓の丸と記されたものもあるそうです。

 

いつ名前変えられたんだろう。。。

 

登ってみます。

 

城下町まで見えますね。

 

ここにも櫓が建っていたようです。

 

更に石階段は続きます。

 

突如このような看板が現れます。

 

個人的にはこんな遊び心は嫌いじゃないですね。

 

急な階段ばかりではなくこんななだらかな階段もあるようです。

 

駐車場から10分ほどで着きました。

 

大手門跡です。

 

続く。。。

お城の一番東まで来ました。

 

ここにも立派な石垣が備わっています。

 

お城が出来た当初はこちらが大手門だったそうですが、

 

後に加藤清正公の指示で大手門を西側に移したとありますね。

 

どこにでも出てくる清正公。

 

築城されてから永い年月が経つと、石垣の積み方も変わってきます。

 

簡単に書くと

 

野面積み

打込接

切込接

 

となりますが、ここ岡城も歴史が古いので途中で積み方が変わっていますね。

 

これは画像右側は打ち込み接ぎで

 

左がわが切込接ぎ

 

となります。

 

そして一番角は

 

算木積み

 

となりますね。

 

この算木積みは熊本城が地震の被害にあった時に有名になった積み方です。

 

石垣の下には定礎も残っています。

 

こちらもはっきりと分かりますね。

 

見事です。

 

 

下原門跡を出て下って行くとバスが通れる車道が走っていました。

 

この辺りがご廟所付近

 

こちらが本丸跡付近。

 

ここも流石に登れなさそうです。

 

お城の南側ですが、ずっと断崖絶壁が続いています。

 

断崖絶壁の反対側はこんな谷になっています。

 

城の北側は

 

地獄谷

 

やら

 

清水谷

 

など名前の付いた谷があるようですが、こちらもこちらで難攻不落の天然要塞になっています。

 

そして大手門を超えて最初に登って来た所にあるこれ。

 

阿蘇山が噴火して出来た溶岩の岸壁だそうです。

 

そしてこれは通称

 

笑積

 

と呼ばれているそうで、大きく口を開けているように見えるからだそう。

 

面白いネーミングですね。

 

このようななだらかな石垣もありました。

 

この城跡には様々な石垣があってとても見所が沢山ありますね。

このお城の拝観は9:00からなのですが、当然僕が入場した時は受付は閉まっていて。

帰る時にオープン準備をしている方がいらしたのでその時に後払いしました。


自動販売機があったので、せっかくなら自動券売機も設置して貰えると、僕みたいに早く来る人は助かりますね。

あまり居ないだろうけど笑




近くに資料館があったのですが、

 

この赤いラインで回った事になります。

 

所要時間を写真の撮影時間から計算すると、3時間も回っていたことになります。

 

このお城と、近くの資料館を含めると、半日かかるほど見所がありました。

 

そしてこのブログでも参考資料から書き出した情報があるのですが。

 

この資料館にはなんと無料でいただける冊子があるんです。

 

その冊子をここでアップするわけにはいかないので、ぜひ現地に行かれる方は見てみてください。

 

とても無料とは思えない充実した資料です。

 

終わり。

東中仕切跡。

 

全体図がありますが、最初に写真を撮った時間を比べるとここまでに1時間かかっています。

 

なんと。

 

バス停がありました。

 

西側からはバスは通れないので、おそらく東に抜けるバスが通れる道があるのでしょう。

 

バスに乗って降りたいところですが、現在の時刻は7:40分。

 

3時間も待つ事になるので歩いて行った方が速そうです。

 

バスが旋回できるほどのスペースが作られていました。

 

しばらく進むと

 

米倉跡。

 

 

籠城の事を考えてか、かなり広いですね。

 

ここに蔵がいくつ立っていたんでしょうか。

 

奥に小さな郭(曲輪)がありますが、特に説明はありませんでした。

 

 

ここは

 

東の郭

 

です。

 

ここには

清水門跡

三楽亭

荘厳社

廟所

があるはずなんですが。

 

ご廟所

 

しか確認できませんでした。

 

なぜなら草が生い茂っていて、当時短パンだった僕には厳しい条件だったのです。。。

 

東の郭(曲輪)は一体化していたので、階段が各所にありました。

 

 

この奥がご廟所

 

こちらが荘厳社

 

これ、膝上まで伸びているんです。

 

足元もわからないし、

 

入ると大変な事になりそうだったので入りませんでした。

 

続く。。。

こちらにざっくりとした岡城の解説が載っています。

 

どうやらこの岡城の始まりは源義経まで遡るようですが、諸説あるみたいですね。

 

ここは火事でも空襲でもなく、大分県による入札により取り壊されたとありますが、

 

どういう事なんだろう。

 

一国一城制みたいのでほぼ壊されたみたいな記事は目にすることもあるけど。

 

ここには三階櫓があったようです。

 

天守閣とほぼ同じ役割を持っていたと言われる櫓がここにあったようですね。

 

 

画像右に伸びているのが西中仕切門方面。

 

こちらが本丸より東側、これから進んで行く予定の方向です。

 

かなり遠くまで見渡せますね。

 

そして本丸奥に天満神社があります。

 

護国神社があることが多いですが、ここは天満様なんですね。

 

ずいぶん綺麗ですが、移築されたばかりなんでしょうか。

 

詳しい解説が書いてありますが、今の社殿になったのは2016年のようですね。

 

島津3万の軍勢にも耐えたことから、

 

落ちない

 

の験(げん)を担ぎ、受験生がお参りに来る場所でもあるようです。

 

そして本丸の一番奥に位置するのが

 

金倉跡。

 

特に説明はなかったのですが、やっぱり金が収められていたんですかね。。。

 

かなり広いですね。

 

礎石も残っています。

 

気になる史跡ですね。

 

では、鐘櫓まで戻って、右側に見えた奥へと続く小道を進んでみましょう。

 

 

本丸よりもずっと奥に進んでいます。

 

この階段を上がると三の丸と二の丸の間に出ます。

 

さらに湾曲しながら進んで行きます。

 

左手前に見える石垣が本丸の石垣です。

 

どうやらこの曲がっているところが

 

東中仕切

 

のようです。

ここで東から来る敵に備えたのでしょう。

 

しかし、西中仕切に比べるとずいぶん侵入しやすいように思えます。

 

何か理由があるんでしょうか。

 

続く。。。

二の丸に入りました。

 

二の丸には台所とお風呂、そして月見櫓があったようです。

 

どうやらかなりゆっくりできる場所として作られていたようですね。

 

 

今はこのようにトイレと休憩所がありますが、ここにお風呂と台所があったことになります。

 

休憩所を左に行くと

 

瀧廉太郎像

 

があります。

 

 

さらに奥へ進むと月見櫓。

 

北向に張り出しているので、朝日と夕日がうまく見えたかもしれません。

 

先に立って撮ってみましたが、かなり開けています。

 

少し戻っていよいよ本丸への階段を上がってみようと思います。

 

その途中にこんなものが。

 

何も表記はありませんでしたが、おそらく排水溝が、湧水を引いていたのでしょう。

 

本丸跡。

 

かなり広いです。

 

奥行きもかなりありますね。

 

本丸から振り返って西中仕切跡の方を見るとかなり向こうまで見渡すことができます。

 

一段上がってます。

 

ここがこのお城の一番高い場所でしょう。

 

ここは次回調べてみる事にします。

 

続く。。。

西中仕切跡です。

 

おそらく正面挟んで両サイドに櫓があったことでしょう。

 

どうやらここには鐘櫓という櫓があったようですね。

 

 

石垣と階段がありますが、木の根で少し浸食されて崩れています。

 

この上に火災や緊急時に鐘が鳴らされていたようです。

 

そしてもう一つが太鼓櫓です。

 

太鼓櫓は時間を知らせるためのものです。

 

 

かなり大きな岩が「切り込み接ぎ」と言う手法で積み上げられています。

 

どうやらこれが一番大きな石で、横幅は3メートル以上あります。

 

 

こちらもですね。

 

画像左はじの石垣を見ると、大きな岩に合わせて上手に組み合わせています。

 

ここから先が三の丸と言うことになります。

 

三の丸には他藩の使者や家臣が藩主と対面するときに使われていたと書いてあります。

 

実際、他藩の者がここまで来た時にこのお城はどう映ったのでしょうか。

 

 

櫓からの三の丸の景色です。

 

ここはこれまでの各敷地に比べると少し狭いです。

 

そして井戸がありました。

 

が、しかしこの井戸は当時から水の湧いていない空井戸だったそうで、

 

抜け道に使われていたとか、財宝が隠されていたとの伝説も残っているそうです。

 

実際は何もなかったそうですが。

 

そしてこの空井戸は江戸時代には60メートルほどの深さがあったとの記録も残っているそうです。


このお城の1番高い石垣は二の丸北面の


約21メートル


が最も高い場所らしいので、それから更に40メートル程深いとなります。


果たして当時何があったのか。


伊賀上野城の井戸は抜け穴になっていた歴史的史実がありますが…


こちらはどうでしょうか…


 夢が広がりますね。

 

この先の階段を登ると左に二の丸。

 

右上の登って行くと本丸へと通じています。

続く。。。