巨大な石垣は
本丸北壁石垣
と言う名前がついている様ですね。
下の写真を参考にしてください。
現存しているこの石垣は3期4度の改修修復工事の結果このような石垣になったそうです。
初期は1601年正宗築城期。
この時は野面積みだったそうです。
簡単に説明すると、天然石を積み上げていく工法です。
2期は1616年地震で崩壊後に残存部分を解体、盛り土に埋め込みさらに大きな石を使用し積み上げたそうです。
3期2度、1646年、1668年。それぞれ地震によって崩壊したのちに修復され現在の石垣になっているそうです。
切り石積み
という工法だそうです。
切り込みハギ
じゃないんですね。
かなり大きいです。
この中に初期の頃の石垣が眠っていることになります。
聳え立つ石垣でなかなか登れませんね。
石垣左手に進んでいくと、左手に鳥居が見えてきます。
これまでにも多々出てきましたが、城の敷地にある神社は「護国神社」の可能性が高いです。
ここもそうですね。
この先に護国神社がある様です。
その鳥居のすぐ右手では修復工事が行われていますた。
本丸北西及び酉門石垣復旧工事
だそうです。
クラファンの看板に一人の名前しかないけど、この方一体いくら寄付したんだろう。
場所的には
西脇櫓があったところの様です。
護国神社の石碑もありますね。
こちらの看板によると、鳥居のあるところから、酉門までの約200メートルほどの石垣の7割程度が
変形・崩壊したため修復工事を行うことになったそうです。
地震で壊れてしまうのはとても残念なことですが、崩壊と修復のために解体去ることで、以前の石垣の調査が出来るのは
不幸中の幸いですね。
こちらの石垣も先ほどの大きな石垣と同様、初期は野面積みの石垣だったそうで、
江戸時代の物が見られたそうです。
3年で北西石垣南部、中門石垣、酉門石垣の三箇所の修復が終わったそうです。
中門石垣はここに来るまでに通りましたね。
上まであがれた石垣です。
この年表によると、1600年の築城期から5代の1736年までに8回も地震で石垣が崩壊していることになります。
その後12代、13代で3度も崩壊している様です。
その都度修復を重ねて現在の石垣になっている様ですね。
地震の被害が書かれていますが、やはり3.11の地震はかなりの被害だった様です。
赤い色が史跡範囲ですが、石垣や建造物があるところは地震の被害も多かった様ですね。
清水建設の崩壊した石垣がどのように壊れたのか、どの様に修復するのかが記載されています。
専門用語み用いられているので全て正確に理解したわけではありませんが、
地震による石垣に対する負荷のかかり方、再度積み込む時の盛り土の量などが記載されています。
足場がかかっていますが、ここが西脇櫓門跡ですね。
ここに櫓が建っていたことになります。
今回は石垣ばかりでした。
地震で壊れては修復を繰り返して現在まで受け継がれています。
木造建築も燃えてなくならない限りは修復を繰り返して現在まで残る事が多いです。
その事を考えると、天災はともかく戦争で焼失の記事を読むとやはり惜しい気持ちになりますね。
続く。。。