仙台城鳥瞰図。

 

こうしてみるとかなり広範囲に屋敷が構えられていたようです。

 

宮城県護国神社です。

 

 

本丸の裏口に位置する門です。

 

手前の看板のある所と、車道を挟んで向こうの盛り上がった所に門があったようですね。

 

平屋建てで瓦葺きの門があったそうです。

 

潜るとすぐに曲がり角になっており、

 

さらにもう一度向きを変え、計2回向きを変えなければならない防御性の高い門だったようです。

 

この門の外側には駐車場が出来ています。

 

大外から回ろうとしたのですが、この時は通行止めになっていました。

 

看板よく見てみると、迂回路がめちゃくちゃ遠い。。。

 

最初に見学した大手門の方へつながっているようです。

 

もしかしたら車はダメでも人は行けるかと思って警備員さんに聞いてみたけど

 

 

無理でした。。。

 

残念。。。

続く。

こちら仙台城の上空からの絵図です。

ものすごく詳細に書かれているのですが、作者は不明だそうです。

1868年に作成とありますが、これだけの技術ならそれなりに名前のある人だとは思うけど、判明しないもんなんですね。

 

本丸跡から城下を眺めるように佇んでいます。

日本屈指の有名な武将像ですね。

 

土井晩翠さん。

知らなかったんですが、「荒城の月」の作詞された方だそうです。

荒城の月は瀧廉太郎が作曲していて、大分県岡城に史跡がありました。

 

土井晩翠さん。

 

本丸跡看板。

五色沼、政宗像、博物館、大手門脇櫓の解説ですね。

伊達政宗から明治期まで230年の間伊達氏の居城だったそうです。

 

青葉山はお城ができる前は霊場だったそうです。

1600年の関ヶ原の戦い直後から築城が始まり、2年後には一応の完成を見たそうです。

かなり早いですね。

 

大広間跡から奥へ進むと大きな駐車場がありました。

 

手水舎です。

 

大きな鳥居がありますが、これが護国寺ですかね。

仙台城は本丸こそないですが、城主が変わらなかったからなのか、敷地も広大で

 

かなり綺麗に仕上げられていたんだなと思えるお城ですね。

 

関ヶ原以降大きな戦もなかったってのも理由の一つかもしれませんね。

 

続く。

本丸跡に来ました。

 

発掘調査の結果ですかね。

 

礎石が見えます。

 

こうしてみるとかなり広いですね。

 

ここまで来る間に見かけた大きな石垣、北壁石垣の解説です。

 

角に「角石(すみいし)」江戸切りという技法で角を際立たせているそうです。

その脇に「角脇石(すみわきいし)」角石を支え、変形を防止するそうです。

その隣に「築石(ちくいし)」石垣の面を構成する石です。

角石を固定する「敷金(しきがね)」鉄製の楔(クサビ)の事です。

角脇石の後ろに「介石(かいいし)」面の石を固定するために使われる石です。

築石の後ろに「木端石(こっぱいし)」大きな石を加工する時に出た石で隙間を埋めるそうです。

 

一言に石垣と言っても使われている場所によって呼び名と役割が違いますね。

 

画像奥から角石、角脇石、築石ですね。

後ろ側に介石とこっぱ石が見えます。

 

こちらは伊達政宗の頃の石垣だそうで、

「野面積み」です。

表面を加工する事なく積んで行き、後ろをこっぱ石で埋めていく石垣ですね。

この時代はこっぱ石の事を「詰め石」と呼んでいたみたいですね。

 

下の画像が「野面積み」ですね。

石を積み上げ、その後ろに詰め石、その後ろが地山になっています。

 

本丸跡の敷地でこの見晴らしなので、ここの上に建物があったらかなり向こうまで見えたでしょう。

 

ワイドで撮るとこんな感じ。

 

東西南北どこまでも見えそうです。

 

ここに本丸屋敷が建っていたことになりますね。

続く。

どうやら当時と現在では登城ルートが違った様です。

ここまでの道順は大手門を曲がってほぼ1本道でした。

石垣しか残っていなかった中の門の上から来た道を見ましたが、どうやらあの道は当時は通っていなかった様ですね。

どうりで攻めやすい道だと思いました。

 

途中で脇道がありましたが、あちらを通っていた様ですね。

 

本丸にはさまざまな御殿があった様ですが、その中でもこの大広間が一番大きかった様ですね。

東西33.5メートル。

東西26.3メートル。

かなり広いです。

調べたらテニスコート4面分くらいです。

その広さから「千畳敷」と呼ばれているそうです。

建築様式は豊臣秀吉による、「京都聚楽第」に酷似しているそうです。

また、屏風や瓦、釘隠なども高い工芸技術が使われているそうです。

 

これが鳳凰図屏風です。

 

1600年の関ヶ原の直後の1602年にはすでに本丸ができていた様です。

でも当時の建築技術でたった2年でほぼ本丸ができるって結構早いけど、どうやって建てたのか気になりますね。

発掘調査により当時の絵図とほぼ同じ建築物が建っていた様です。

 

1600年から築城が始まり、1638年にお城から政庁へと変化を遂げたそうです。

レプリカの瓦には金が装飾されているけど、当時はキンキラのお城だったのかもしれませんね。

 

日本城郭協会なる団体から、日本100名城として認められた賞状。

基準が何かあるんですかね。

続く。

今回のブログは資料編です。

 

発掘調査の結果がパネルで紹介されていました。

 

本丸大広間には14の部屋があり13の部屋に名前が付けられているそうです。

 

広間の柱は1間で、現在は1間といえば180センチで計算されますが、当時は197センチだったそうです。

6尺5寸です。

また、柱の下には礎石と言う木材を乗せる台の役目の石があるんですが、その礎石の下には小石が敷き詰められていて、

沈下防止の役目があったそうです。

ちなみにこの礎石の下にも遺跡があることから、もっと古い建物があった可能性もあるそうです。

 

本丸屋敷には上段の間(政宗公の部屋)のさらに上の上々段の間があったそうです。

天皇家や徳川家の方々が来た時の部屋だそうです。

実際に使われた記述はないとのことですが、もしかしたら今後見つかる資料に記述があるかもしれませんね。

 

このパネルによると大広間は二代目の可能性があるそうです。

1602年に完成。

1604年に年始行事開催。

とあるものの、残されている資料には1610年に大広間が完成したと記載されているからだそうです。

 

本丸には大広間だけじゃなく数々の屋敷があったそうですね。

比較的新しい城ですが、意外にも資料は少ないんですね。

あまり情報を外に出さなかったのかな。

唯一、「肯山公造制城郭木写之略図」のみだそうです。

 

青葉城の名前の初出は1645年だそうです。

仙台の名は政宗公が1600年に「千代」の名前から「仙台」に変更したそうなので、

初めの呼び名は「仙台城」だそうですね。

 

仙台城に現存している建築物は大手門北側の土塁のみだそうですね。

他の建造物は全て修復されたり消失したりしたそうです。

 

続く。

宮城県護国神社。

 

護国神社は明治維新以降の英霊(物凄い簡単に言うとその国や地域の為に亡くなった方の霊)を祀るところですね。

 

東京では靖国神社と言われています。

 

よく首相の靖国参拝が問題になりますね。

 

個人的には国の礎を作ってくれたご先祖様を国の代表としてお参りするのはいい事だと思うので靖国参拝は賛成です。

 

調べてみたら靖国神社には246万6千もの英霊が祀られているそうです。

軍人さんはもちろんですが、ひめゆり学徒隊も祀られていて、

医療従事者として亡くなった民間人も祀られています。

外交問題になっている英霊は14名だそうです。

反対している国は中国と韓国だそうです。

 

この奥に宮城県の護国神社があるみたいですね。

 

鳥居を潜って左側の石垣と

 

右側の石垣です。

 

櫓が建っていた様な石垣が組んでありますが、ここは何があったのかはまだ資料はないです。

この先にあるのかな。

 

ずいぶん緩やかな通路ですが、これじゃあすぐに攻め込まれてしまいますね。

何か仕掛けでもあったのかな。

左上の石垣が一枚上の写真となります。

 

ちょっとした資料が展示されていました。

修復工事や発掘調査で出てきた品物らしいですね。

こちらのは複製が展示されていましたが、ガラス細工なんかもありました。

 

ガラス製のグラス。

本丸跡から出土とありますが、伊達政宗使ってたんかなあ…

 

本丸大広間の模型。

すごいでかい。

よく見ると武士が廊下歩いてますね。

こちらは模型だけで再建はされていません。

続く。

巨大な石垣は

 

本丸北壁石垣

 

と言う名前がついている様ですね。

 

下の写真を参考にしてください。

 

現存しているこの石垣は3期4度の改修修復工事の結果このような石垣になったそうです。

 

初期は1601年正宗築城期。

この時は野面積みだったそうです。

簡単に説明すると、天然石を積み上げていく工法です。

 

2期は1616年地震で崩壊後に残存部分を解体、盛り土に埋め込みさらに大きな石を使用し積み上げたそうです。

 

3期2度、1646年、1668年。それぞれ地震によって崩壊したのちに修復され現在の石垣になっているそうです。

切り石積み

という工法だそうです。

切り込みハギ

じゃないんですね。

 

かなり大きいです。

この中に初期の頃の石垣が眠っていることになります。

 

聳え立つ石垣でなかなか登れませんね。

 

石垣左手に進んでいくと、左手に鳥居が見えてきます。

これまでにも多々出てきましたが、城の敷地にある神社は「護国神社」の可能性が高いです。

ここもそうですね。

この先に護国神社がある様です。

 

その鳥居のすぐ右手では修復工事が行われていますた。

本丸北西及び酉門石垣復旧工事

だそうです。

 

クラファンの看板に一人の名前しかないけど、この方一体いくら寄付したんだろう。

 

場所的には

西脇櫓があったところの様です。

護国神社の石碑もありますね。

 

こちらの看板によると、鳥居のあるところから、酉門までの約200メートルほどの石垣の7割程度が

変形・崩壊したため修復工事を行うことになったそうです。

地震で壊れてしまうのはとても残念なことですが、崩壊と修復のために解体去ることで、以前の石垣の調査が出来るのは

不幸中の幸いですね。

こちらの石垣も先ほどの大きな石垣と同様、初期は野面積みの石垣だったそうで、

江戸時代の物が見られたそうです。

 

3年で北西石垣南部、中門石垣、酉門石垣の三箇所の修復が終わったそうです。

中門石垣はここに来るまでに通りましたね。

上まであがれた石垣です。

 

 

この年表によると、1600年の築城期から5代の1736年までに8回も地震で石垣が崩壊していることになります。

その後12代、13代で3度も崩壊している様です。

その都度修復を重ねて現在の石垣になっている様ですね。

 

地震の被害が書かれていますが、やはり3.11の地震はかなりの被害だった様です。

 

赤い色が史跡範囲ですが、石垣や建造物があるところは地震の被害も多かった様ですね。

 

清水建設の崩壊した石垣がどのように壊れたのか、どの様に修復するのかが記載されています。

専門用語み用いられているので全て正確に理解したわけではありませんが、

地震による石垣に対する負荷のかかり方、再度積み込む時の盛り土の量などが記載されています。

 

足場がかかっていますが、ここが西脇櫓門跡ですね。

ここに櫓が建っていたことになります。

 
今回は石垣ばかりでした。
地震で壊れては修復を繰り返して現在まで受け継がれています。
木造建築も燃えてなくならない限りは修復を繰り返して現在まで残る事が多いです。
その事を考えると、天災はともかく戦争で焼失の記事を読むとやはり惜しい気持ちになりますね。
 
 
続く。。。

 

坂を登って行くと左手に石垣が見えてきます。

 

中門石垣。

 

東日本大震災で被害が合った様ですね。

境目ができてヒビができたそうです。

それを機に石垣を解体して修復したそうですが、1977年の修復工事ではコンクリートを使っていた様です。それを今回は伝統的な石の組み上げで修理した。

と書いてあります。

コンクリートを剥がすのも大変でしょうけど、伝統工法で組み直すのも凄いですね。

技術継承が行われているのが素晴らしいです。

 

少し色が変わっているところが境目みたいですね。

 

登れるようになっていたので来た道を写してみました。

当時は木は刈り込んでいたと思うので、そうするとかなり奥の方まで監視することができそうです。

 

反対側のこれから向かう先もかなり奥まで見えますね。

カーブになって低めの石垣も見えます。

 

中門(なかのもん)

こちらの門は戦災ではなく、1920年に老朽化の為解体されたそうです。

その時に残された平面図によると、幅14メートル、奥行き5メートルも合ったそうです。

結構大きい門ですね。

2003年の地震の際に石垣の一部が崩れ、その時の解体修復工事の時には、金箔瓦が出土したそうなので、

かなり立派な作りになっていたのでしょうね。

 

中の門跡を越えるとしばらく真っ直ぐの道が続きます。

当時もこの広さの道だったのか、もっと細かったのか気になりますね。

普通本丸に続く道は攻め込みにくい様に曲がっていたり、道が細くなっていたり、階段作っていたりするもんですが。。。

その道の途中、左側にありました。

 

沢門跡(さわのもんあと)

この看板によると、この辺りには曲輪が複雑に設けられていたとありますが、

やはり当時はもっと道は細く、両側に曲輪がたくさんあったのみたいですね。

ここにはその図はないですが、この先どこかに詳細図があればいいな。。。

 

初めて聞きました。

カエンタケ。

最近多い外来種かと思って調べてみたら、どうやら日本含めアジアで多く分布する様です。

触るだけで皮膚がただれ、その手で目を擦ると失明し、食べると死に至る、なんとも恐ろしいキノコだそうです。

この日はご覧の通り雪景色だったので見当たりませんでしたが、子供を連れて行く時は要注意ですね。

当時の城を守る武士達はこのキノコを弓矢に塗ったり戦さに有効活用してたのかな。

なんて思いますよね。

僕が城主だったら間違いなく使いますね。

もし敵国の忍者だったらこれをすり潰して井戸に投げ入れますね。

 

広い道から左をみるとこんな感じ。

少し細くなってます。

看板だとこの先に「巽(たつみ)門」があるはずです。

しかしここは一旦無視して広い方の道を進んでいきます。

 

木々の向こうに水平な線が見えてきました。

石垣ですね。

 

片側2車線のカーブの向こうにかなりでかい石垣が見えてきました。

道路の大きさと比較してもらうとわかりますかね。

曲がってやっと見えたと思ったらこんなでかい石垣あったらしんどい城攻めだなと思います。

 

続く。

大手門跡を超えて右を見るとこちらの像があります。

お城といえば必ず誰かの像があります。

この方は「支倉常長」

伊達政宗に命じられヨーロッパにキリスト教徒の布教と通商を求めて世界を回ったそうです。

結局その旅も日本に戻った時にはキリスト教布教禁止の時期だったらしく失敗だったそうです。

 

そのすぐ近くに井戸がありました。

 

が、これは流石に現代に作られたものですね。

ここにあったよ。と言う模型でしょうか。

特に何も書いてありませんでした。

 

正面に大手門櫓です。

左に井戸が見えますね。

右に支倉さんの像です。

 

ここは二の丸跡ですがかなり広い敷地面積です。

 

二の丸跡地には東北大学のホールがあるそうです。

ここは看板も見やすくて説明も多いので助かりますね。

大手門脇櫓に戻ってきました。

この看板によれば現在の櫓は1967年に再建されたものだそうです。

 

この時は中に入ることは出来ませんでした。

特別内覧なんてあれば中見てみたいですね。

 

そして謎の石碑がありました。

二つも。

これだけたくさん案内板があるのに、この石碑に何が書いてあるかの説明板はありませんでした。

なので調べてみると上の石碑は「松川敏胤」と言う仙台出身で日清戦争や日露戦争で活躍した方だそうです。

 

下の石碑は「海藤静夫」と言う仙台市の収入役(2007年まで配置されていた地方自治体の会計事務)を担っていた方だそうです。

 

さて。

ここからの車道ですが。

当時はここが本丸に続く道だったはずですが、2車線の道路ができるくらいの城内に続く道はかなり広いですね。

 

続く。

仙台城行ってきました。

 

かなり前ですが。

 

仙台城と言えば伊達政宗ですね。

 

もし伊達政宗が戦国時代真っ只中に生まれていれば歴史が変わっていたのではないかと

 

言われるほどの武将だった様です。

 

かなり広大な敷地面積をもつ仙台城。

 

青葉山に建てられたことから、青葉城と呼ばれることもあります。

 

天然の要塞ですかね、回るのが楽しみな城です。

 

残念ながら城郭はありません。

 

駅から向かうとまず三の丸があります。

 

発掘と研究により、土塁や塀に囲まれ、伊達政宗の時代には庭園と茶室を伴う屋敷、

 

それから年貢米を納める蔵などがあったことが判明しているそうです。

 

現在は博物館が建てられています。

 

城跡あるあるですが、三の丸や二の丸には役所や博物館などが建てられることが多いですね。

 

こちらは五色沼。

 

解説によるとここで外国人がスケートを始め、彼らにスケートを習った日本人が

 

各地でスケートを広めたことから日本フィギュアスケート発祥の地とされているそうです。

 

 

 

かなり広いスケートリンクになりそうです。

 

写真を見るとわかりますが、この日はまだ雪が残っていましたが、氷は張っていませんでした。

 

五色沼を左手にして坂を登って行くと正面に大手門跡があります。

 

残念ながら戦争時の空襲で焼けてしまったそうですが、高さ12メートルというと4階建て相当の城門となりかなり大きいですね。

 

いつも思いますが、空襲がなければ日本には一体どれほどの史跡が残っていたことでしょうか。

 

大手門につながっていたであろう右側の石垣です。

 

とても立派な石垣ですね。

引きで見るとこんな感じ。

 

左には櫓があります。

 

大手門脇櫓

 

です。

 

元々は仙臺城と表記されていたみたいですね。

 

唯一残っていた石垣も震災で崩れ落ちてしまいました。

 

現在は修復されていますね。

 

こちらがその石垣。

 

内部は粘土と藁を練って瓦と交互に重ねて補強されていたそうです。

 

大手門あとを越えるとまた看板がありますが、写真を見てもやはりかなり立派な

 

大手門だったことが伺えます。

 

ここからしばらく仙台城の記事が続きます!