穴山邸跡から南東に7分ほど。
15人目
甘利備前守虎泰
あまりびぜんのかみとらやす
甲斐国出身で、甘利郷の出らしいです。
村の名前がそのまま苗字になった人ですね。
政治家にも甘利さんているから気になって調べてみたら、政治家の方は神奈川県出身だそうで、
関係なさそうですね。
この甘利虎泰は武田信虎時代は武田四天王と呼ばれるほどだったそうです。
数々の戦で武功を挙げた武将で、どうやら信心深い方でもあるようで色々な神社に奉納もしている
記述が残っているそうです。
現在は道路の片隅に跡地看板が残っているだけになっています。
このすぐ横に護国神社がありました。
かなりでかいです。
護国寺って各地にありますが、(お城の敷地にある場合が多いですね。)
元々は明治時代以降に戦争や国事で亡くなった地域ゆかりの英霊をまつる神社だそうです。
立派ですね。
東京には靖国神社がありますが、全国の護国神社と意味合いは同じですね。
度々首相が靖国神社に参拝が問題になっていますね。
護国神社から東に5分ほど行くと信玄公墓所があります。
この看板によりと、1779年に発掘作業で発見されたそうですね。
この奥に墓所があります。
ここから西へ5分ほど。
16人目。
山縣三郎右兵衛尉昌景
やまがたさぶろう ひょうえのじょう まさかげ
長い名前…
飯富虎昌の弟だそうです。
この方もかなりの武将だった様ですね。
150騎の侍大将だった様です。
源四郎とも呼ばれていたそうで、
「源四郎の赴くところ敵なし」
と言われてたそうですね。
すごい言葉。
武具を赤に統一して戦に臨んだ様です。
いわゆる「赤備え」と言われる騎馬隊ですね。
(騎馬隊が実在したかは前述の通り謎らしいですが、まあ、信じた方がロマンありますよね)
150騎の侍大将になってから11年後には300騎の大将になったそうです。
逸話がたくさん残っているので一つだけ。
数々の戦で武功を挙げたのはもちろんですが、その最期が熾烈な逸話が残っています。
長篠の戦いでは両腕を銃弾で撃ち抜かれても采配を話すわけにはいかないと、口に咥えて討死するまでそれを
離さなかったそうです。
そして「長篠合戦図屏風」に、戦死した昌景の首を家臣の志村又左衛門が敵に奪われない様に持ち帰る描写が描かれているそうです。
当時はやはり首を敵に奪われる事は武士の恥だと思われていたのでしょうか。
現在は中学校になっています。
続く。。。












































































































