見上の勝手にブックカバー・チャレンジ⑮~松高演劇科その2 | NPO法人 日本学校演劇教育会

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NPO法人 日本学校演劇教育会の活動内容を紹介します。

(本会会員、見上裕昭さんのFacebook記事より)


最後の昔話です。長文になりましたが、教員やプロの演劇人の方々に是非「演劇の授業」を行って頂きたく、想いを込めて・・・よろしかったらお付き合いください。


「見上の勝手にブックカバー・チャレンジ⑮~松高演劇科その2」

前回詳しくご説明したように、現場からの要求で、何とかスタートした松高の演劇科。授業をやるには教科書が必要と言われ、「そんな物いらねえよ!」とぶち壊すには、一緒に作ってきた教務主任を始め多くの方々の期待と努力は大きすぎた。本当は自分で教科書を作りたかった。しかし、出版社を探して・・・申請をして・・・面倒だった。自分のやりたいことを考えると、自分の著書を出版することは優先順位が低かった。そんな折、竹内敏晴演劇研究所でご指導頂いた、さきえつやさんの本を発見。「さきさん!いい本、作っておいてくれた!安いし!」その後、ずっと教科書として採択させて頂いている。


 2年生の選択希望者は3チーム、「演技基礎」2単位(見上担当)、「戯曲研究」1単位(小室担当)でスタート。見上がエアロビから、音楽をガンガン使って「口立て」の動のレッスン。小室さんには、菊池寛「父帰る」、シェイクスピアなど古典を中心に、所謂、静の座学をお願いした。3年次になった時の選択、「演技実習」4単位と芸術科も選択可能な「演劇表現」2単位2チーム、「演劇身体訓練」2単位2チームを加えると21時間演劇の授業をする教員が必要だ。そこで、当時の本城学(さとる)校長の勧めもあり、高校演劇界では有名人の阿部順氏に来てもらうことにした。


 「コンクールで勝った負けたは、古谷さんや土田さんに任せて、というより若い人にチャンスをあげて、阿部さんの才能を違うことに使おうよ!県は、演劇部のことなんて考えてないから。」現に千葉県の教員人事では、一度、野球で甲子園出場した教員の転勤先は考慮しても、演劇でいえば何度も甲子園で優勝争いしている阿部、土田、古谷を平気で、演劇部の存在しない学校へ、タダの教科の教員として駒のように異動させている。優先順位が違うのだからしかたない。勿論、その度に、一から全国を目指す姿には頭が下がる。しかし、私は阿部さんに「授業の方が県にインパクトがある!10年後、松高の演劇部も授業も全て貴方のものだから!好きにしていいんだから。俺は、最後は1役者として生きていくので・・・」演劇の授業ができる教員として、演劇部会全国の事務局長:阿部順を松戸高校演劇部の第3顧問として迎えた。演劇の授業を始めるにあたり、当時50代になっていた私に対し、散々「貴方がいなくなった後は、どうするんだ?後継者は?」と言っていた県は、本城校長の人事の申し入れを、当然認めてくれた。一年後、見上が演劇科主任として16時間の「演劇」授業を担当。残りの授業を阿部氏が担当。演劇部は小室氏がコンクールの指導。阿部氏が第二顧問となり、その他の発表会の指導を務めた。私は、年に数回プロの舞台に出演(全て教科の指導の為と報告していた)しながら、演劇部は第三顧問として肉体訓練の指導にあたった。


 私が担当の「演技実習」の授業では、年に2本の公演を行った。「見上の若大将シリーズ」と高校演劇の名作「卒業」(作:谷崎淳子)を、文学座が養成所で「わが町」と「女の一生」を定番で何十年もやっているように、松高演劇科の定番として、上演し続けた。勿論、「口立て」で演出するので、毎年の受講生の個性により台本はどんどん書き換えた。「若大将」は、その年のメンバーによって、若大将ではなく、その妹がメインになることもあった。谷崎さんには、設定を松戸高校に変えるは、特攻隊の青年を主人公の初恋の人として登場させるは、私が自分の作品の様に扱うことを、温かく見守っていただいた。しかし、どんなに私が遊んでも谷崎さんの脚本の根底に流れる誠実さが作品を支えてくれた。


 「演劇やったって進路の出口がない!」と散々言われたので、プロへのアプローチとして、普通高校では珍しく松高演劇科を劇団青年座研究所の指定校にした。また、文学座の制作の方々を毎年ミニ集会で講師として招き、松高の生徒を視ていただいた。文学座の女優南一恵さんと見上の朗読ライブを松高演劇科主催で行い生徒も参加させた。千葉県主催の教育DVD作成で、サンミュージック、ヒラタオフィスなどの芸能事務所の役者と対等に共演させた。芸能プロダクションの関係者も多数授業見学に招いた。もともとプロの俳優を育てるために始めた演劇の授業ではなかったが、プロと繋がる活動で、プロ志望の生徒以外にも変化が現れ始めた。授業見学者が多くなり「見られることへの緊張感」が、「集中力」に変わってきたのだ。やはり、どんな人間でも見てくれている人がいるという実感は、生きている充実感に繋る。


「演劇表現」の最初の受講生だった佐藤笑實梨さんは、千葉県の教師になり立派な演劇指導者になった。美術の芸術科でありながら「演劇」を選択した伴内絵理子さんは、私が出演した「長崎の鐘」(作・演出:岡部耕大、紀伊國屋ホール)の上演に際し小道具の「マリア像」を制作した。そして、それをネタにAO入試で日大芸術学部に入学し、今ではNHKの一人前の美術部員だ。


 2014年度の演劇科の「演技実習」選択者は凄かった。16名のメンバーの中、文学座3人、青年座1人、宝塚音楽学校1人、その他4名がプロを目指した。(勿論、他のメンバーも看護師や教育関係などで活躍中だ。)ある事務所のマネージャーが「見上さん、このまま事務所作れますよ。」私にとっても一人一人が自慢の教え子だった。10年後、この子たちとプロの現場で共演という大きな夢を描いた。松高に行くことが楽しくて仕方がない、絶頂期だったかもしれない。幸せな時間は翌年も続いた。あの「卒業」を松戸市の戦後70年及び平和都市宣言30周年記念公演で上演して欲しいとの依頼を受けた。同じ2015年、小室教諭の指導の元、演劇部は初めて、全校大会に出場した。しかし、私は、「いい時に辞めるんだ。」心に決めていた。今まで演出をしながら出演したことがなかった「見上の若大将シリーズ」。自分の出番を作って、役者としても生徒と共演した卒業公演。「夢に向かって若大将~もう一度パッション」を最後に、2016年3月、松高の演劇の全てを小室秀一教諭と阿部順教諭に託して、完全に教員を廃業し、個人事業主の俳優となった。